「たまごレディオ」オンエア・リスト 12月31日 ゲスト:ティト・ジャクソンさん | ノーナ・リーヴス オフィシャルブログ「LIFE」Powered by Ameba

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西寺郷太・奥田健介・小松シゲル NONA REEVES

2013年12月31日 火曜日
オンエア・リスト

1. 2300 Jackson Street / The Jacksons

<今日の一曲/ポップ先生チョイス>

2. シルクロード・ウーマン / 西寺郷太

<音楽教えて!カパチ先生! /ティト・ジャクソン>

3. Papa's Got A Brand New Bag / James Brown
4. Ain't Too Proud To Beg / The Temptations
5. Thank You / Sly & The Family Stone
6. We Can Change The World / The Jacksons

「たまごレディオ」には沢山の豪華ゲストが来て下さったけれど、やはり最大級がジャクソン5、ティト・ジャクソンさんの登場でしょう。ティトと僕は、これまでも様々なイベントで訪れたロンドン、オレゴン、東京で何度も顔を合わせていて、すでに仲良くしてもらっていたんですが、兄弟の(ジャッキー、ティト、ジャーメイン、マーロン)の中では一番人見知りだったんですよね。最初は。ですけど、10月初頭、まさに岡村さんの「たまごレディオ」が始まるくらいの頃ですね、ティトから直接電話がかかってきまして。びっくりしましたね。共通の知人から、電話番号を聞いたらしく。
 その後、僕のソロ・アルバム『テンプル・ストリート』にギターとコーラスで彼は参加してくれたり、ロサンゼルスで歓待してくれたり、マイケルと自分たち兄弟の実家に連れて行ってくれたり・・・。涙ものの関係を築けて本当に嘘みたいです。

 何より、僕の弟のバー SUNKING で行われた「メルマ旬報」の忘年会に、ティトがサプライズで来てくれたのは本当に驚きました。伊賀君とか原カント君が「ティトが本当に来てくれたんですかーーー!!!」とぶっとんでて僕も嬉しかったです。その日は仲間のV6イノッチも来てくれてたんですが、カオスでしたね。

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 現在、まとめ中の小説「噂のメロディ・メイカー」でもロスへの旅のことはまとめています。この小説は実話と虚構が入り組んでいるのですが、以下の部分は100%真実。改めてこの奇跡のような体験をここに残したい。6月25日の刊行を目指し、17万字あった連載原稿を14万字まで一度削り、そこから3万字書いてます。お楽しみに。

「噂のメロディ・メイカー」より。

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 LAXに飛行機が着陸し、しばらくすると着陸寸前に機内アナウンスの指示通り切っていた iPhone の電源を僕は入れた。すると、まさにそのタイミングで僕の電話が鳴った。ジャクソン・ファイヴ、ジャクソンズのギタリスト、ティト・ジャクソンからだった。優しい低音ヴォイスが耳元で響いた。「GOTA? LAに着いたかい?」僕は慌てて、電話に出た。先月、ブルーノート東京でのソロでの来日公演を終えた彼と何度か会った際、彼のLAの自宅スタジオで一緒にレコーディングすることを約束した僕らは、それ以降も頻繁に連絡をとりあってきた。確かに彼に飛行機の時間や宿泊するホテルなどをメールして、僕はここまで来たが、実際に会うのは明日以降。まさかティトが到着日の時間ジャストに電話をくれるとは予想していなかった。

 僕とティトとの「出会い」は、30年前の1983年夏にさかのぼる。1983年3月25日、LA郊外のパサディナ市民会館で開催された「モータウン25周年」を祝うステージ「YESTERDAY - TODAY - FOREVER」。このイベントは、60年代から70年代初頭までの栄華から一転、凋落傾向にあったこの名門レーベルの創始者ベリー・ゴーディ・ジュニアが、再起を賭けて企画したブラック・ミュージックの祭典・一大絵巻として、盛大に行われた。このコンサートには、テンプテーションズ、フォー・トップスなどモータウンを代表するコーラス・グループを始め、スティーヴィー・ワンダー、マーヴィン・ゲイ、ライオネル・リッチー、ダイアナ・ロスなど同レーベルが生んだ多くのスーパースターが登場したが、伝説的な先輩アーティスト達を押しのけ、すべての人の注目と喝采をかっさらったのが、前年末にモンスター・アルバム《スリラー》をリリースした直後、この時期まさにヒット・チャート首位を7週間独走中だったシングル〈ビリー・ジーン〉を舞い踊った、マイケル・ジャクソンだった。
 〈アイ・ウォント・ユー・バック〉〈ABC〉〈ザ・ラヴ・ユー・セイヴ〉〈アイル・ビー・ゼア〉というソウル・クラシックの連打で、モータウン・レコードから四曲連続全米ナンバー・ワンという鮮烈なデビューを果たしてから、13年を越える波瀾万丈の彼のキャリア。その中で数多くのヒット曲を放ちながらも、まだ24歳という若さが眩しかったマイケルは、黒く輝く衣装と左手に白い手袋をはめた彼は〈ビリー・ジーン〉の間奏部で、その後の彼の代名詞となるダンス「ムーンウォーク」を初披露する。歴史に残るこのパフォーマンスは、二ヶ月後の5月に全米で放送されるやいなや、全世界に衝撃を与える。数ヶ月のタイムラグの後に当時9歳、小学4年生だった京都に住む僕の元にもその日の全貌の映像が届いた・・・。僕がマイケルの「ムーンウォーク」に夢中になったのは、言うまでもない。しかし、僕だけでなくこの頃は、世界中の小学校や中学校でマイケルの物真似が一種の疫病のように伝播し大流行したことを自分の経験として覚えている30代後半から50代の諸氏も多いだろう。

 とは言え・・・、実はこの日、モータウン社長のベリー・ゴーディ・ジュニアが事前にステージのハイライトとして企画したのは、むしろそのマイケルのソロ・パフォーマンスの前に実現した「オリジナル・ジャクソン・ファイヴ再結成」のほうだった。この夜は、75年にジャクソン・ファイヴがモータウンを離脱、エピックに移籍した際に、ただひとりモータウンに残留してソロ・アーティストとして別行動していた三男のジャーメイン・ジャクソンが「ジャクソンズ」に7年ぶりに合流し、全6人のジャクソン兄弟が集結する、という記念すべき舞台でもあった。結果的に、その「再結成」は〈ビリー・ジーン〉のあまりのインパクトにかすんでしまったのだが・・・。
 当時、手に入れたばかりのVHSデッキを駆使しながら、コンサートの映像を最初から最後まで何度も何度も細かく観ていた僕は、ジャクソン兄弟6人の再結成ステージで最も観客から左側の「下手(しもて)」に位置する、ギターを持ちキャップをかぶっている「マイケルのお兄さん」の名前が「TITO(ティト)」であることを知る。なぜなら、彼はスパンコールでアルファベットを刻んだ「TITO」と書かれたとてもわかりやすい帽子をかぶっていたからだ。1984年の夏、10歳の僕はそれまでカセット・テープのダビングで繰り返し聴いていた《スリラー》に続く、マイケルの「新作」、ジャクソンズ《ヴィクトリー》のLPレコードを母親にねだり、買ってもらう。ここが、自分にとって「今」に至る最大のポイント、分かれ道だった。

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 《スリラー》から約一年半のスパンでリリースされた《ヴィクトリー》は、彼の新作を渇望した世界中のマイケル・ファンをある意味で「多いにずっこけさせた」アルバムだった。なにせ、ギネスブックの記録をも塗り替え、ポップ・シーンの「絶対的センター」であったはずのマイケルがリード・ヴォーカルをとる曲が、ミック・ジャガーや、兄ジャーメインとのデュエットを含めて8曲中3曲しかない。「え?」、という明らかな肩すかし感。実際に、それまでのジャクソン・ファイヴ、ジャクソンズの歴史でこのようなことは一度もなかった。ソロとして充分過ぎる成功を手にし、グループからの脱退を決めていたマイケルにとっては良くも悪くも「兄弟や家族への最後のご奉公」のようなものだったであろうこのアルバムは、結果的に最も兄弟がそれぞれの魅力を解き放った「民主的」な作品となる。
 マイケル中心に物事を捉えるメディア、ファンからは今に至るまで「駄作」と称されることも多い《ヴィクトリー》だが、僕自身はだからこそ、ジャクソンズ、そしてマイケルの独自の魅力をも立体的に発見できる傑作だと思っている。何より、マイケルの「声」「歌唱」の状態が最高レベルに達していることが大きい。彼の人生で心技体ともに最大にシンガーとして脂が乗り切った状態だったのが、83年末から84年にかけての《ヴィクトリー》制作期間だったのでは?と言うのが、「マイケル研究家」としての僕の持論だ。

 ともかく、《ヴィクトリー》が、あくまでもマイケルのソロ作ではなく、ジャッキー、ティト、ジャーメイン、マーロン、マイケル、ランディの再集結したジャクソン兄弟6人による「ジャクソンズ」のレコードだったことはその後の僕の彼らの捉え方に大きな影響を及ぼしている。僕は最初からマイケルだけでなく、トータルでジャクソン・ファイヴ、ジャクソンズのファンだった。
 そして、そのティトから今、僕は「TOMODACHI」と呼ばれている・・・。
 ティトはLA滞在中、クルマを毎日出すからゴータの行きたいところ、何処へでも連れて行くよ。LAはクルマがないと移動が大変だからね、と申し出てくれた。そして翌日、実際に僕と、一緒に日本から同行して来た専属デザイナーのキンクさんが泊まるダウンタウンのホテル「ミレニアム・ビルトモア」まで、彼は深いグリーンのベントレー・コンチネンタル、オープン・カーで颯爽と迎えにきてくれたのだ。後部座席には、ティトが厚い信頼を寄せる古くからの友人でマネージャーのエドも一緒だった。エドと僕は、東京やロンドンで何度か会話を交わしている。彼は現在60歳のティトよりも5歳上の小柄で痩せ形の老黒人紳士で、僕には映画「ロッキー」で登場する、トレーナー役の老人ミッキーとキャラクターがかぶって見えた。物腰はミッキーよりも柔らかいけれど。重い病気でしばらく入院していた彼が職務に復帰して久々の再会だったこともあり、僕は彼が元気になったことを喜んだ。
 そう・・・、今回のLA行きの最大の目的はティトとの楽曲制作、レコーディングだった。そして、ティトの都合の悪い日や時間は小説「噂のメロディ・メイカー」のための現地取材に当てる。しかし、このLA滞在中、予想以上のティトの「パーフェクト・ホスピタリティ」、心配りと歓待に、僕は嬉しい悲鳴を上げることになる・・・。

 まずは、東京で会う時は庶民的な暮らしをもエンジョイしていた心優しき「常識人」であるティトの、本国ではやはり流石の、セレブリティ・ライフの洗礼を僕は連続で浴びた。市場価格で2000万円を優に越えるベントレー・コンチネンタルの美しさに驚きの声を上げたのも束の間、カー・マニアの彼はなんと13台のクルマを、LA郊外、ラスヴェガス、コスタリカの三つの邸宅に所有しているというのだ。LA郊外のティトの自宅に到着し、なにより驚いたのが、自宅前に停められた数台の高級車がすべて彼のものであったこと。その中でも、いかにもアメリカ的な巨大なピックアップ・トラック「ダッジ・ラム」、荷台のついたそのクルマの後部にさらにレッカーのついた、日本人の感覚ではどう考えても「自動車業者」のクルマのような・・・、それすらもティトのものだったことだ。驚く僕とキンクさんに、実は、俺・・・、あれ運転するのが一番好きなんだよね、という発言は、ティーンの頃からのティトのクルマ好きが深く伝わってくるエピソードだ。

 LA郊外の住宅地、エンシノ、ヘイヴェンハースト地区にあるマイケルや、ジャネットをはじめ、もちろんティトを含むジャクソン・ファミリーが育った「実家」にも招待された。ここは、ジャクソン・ファイヴが大きな成功を収めた後に移り住んだ、マイケル及びジャクソンズ・ファンにとってまさに「聖地」と呼べる場所だ。敷地内にはプール、鯉の泳ぐ裏庭、そして何よりマイケルや兄弟達が日夜楽曲制作とレコーディングに励んだ「ラボラトリー(研究所)」とも呼ばれたスタジオが、今もある。
 成人後のマイケルによって度重なる改装が施された「ディズニー・ランド」をミニチュアに模した遊園地のような豪邸。白い噴水をバックに、マイケルがインタビューに答える映像や、見慣れた写真も数多い。特に「WELCOME」と書かれた「離れ」の二階には壁や天井のすべてに、パネルとして拡大された彼らの祖父、祖母の代からの家族写真、そして先輩や仲間達との記念写真が貼り巡らされたマイケルの部屋がまだ存在していた。テレビで雑誌で良く見た、その部屋に通された僕は、圧倒的な感情が押し寄せることを止められなかった。特に全身に神聖なる思いが駆け巡ったのは「ラボラトリー」で、大きなニーヴ製のレコーディング卓の前に座った瞬間だ。ここは、マイケルがライオネル・リッチーとともに〈ウィ・アー・ザ・ワールド〉を創造した場所であり、〈ビリー・ジーン〉〈今夜はドント・ストップ〉〈BAD〉〈スムース・クリミナル〉・・・、書ききれないほどの、ほぼすべてのオリジナル曲を生んだ場所だ。フレディ・マーキュリーもスティーヴィー・ワンダーも訪れた、まさに音楽の「神殿」。トラックごとに何が収録されているかを示す、エンジニアが書きこんだであろう白く長いテープが80年代の名残を残したまま無数に壁に貼られていた。「どの曲のものだろう?」僕は、しばらく無心で眺めていた。「ラボラトリー」の奥の壁にはマイケルが自伝「ムーンウォーク」の序文に使ったジョン・レノンの言葉が刻まれていた。

「本当の音楽が私のところにやってくる時 天空の音が、理解を凌駕した音が、やってくる時
私自身は単なる媒介にすぎないから、何も関係がないのだ。
 唯一の喜びといえば、私に与えられるそうした音を書き写すことだ。
 私は媒介でしかない。が、そうした瞬間のために私は生きている。(ジョン・レノン)」

 ティトによるとジャクソンズ時代は兄弟が時間割を決めて、それぞれの楽曲作りでスタジオを使っていたという。もちろん、僕が最初に手にしたアルバム《ヴィクトリー》の作品群もこの部屋で生まれたものだ・・・。ここに取材などではなく、ただ単に「友人」としてスタジオまで入った日本人は僕が初めてじゃないだろうか・・・。花屋までも作られた美しい邸宅内を「ここでマイケルは暮らして、音楽を生んでいたんだなぁ」と感慨にふけりつつ散歩していると、一枚の木目に飾り文字が掘られたつり下げられた看板が目に入った・・・。「マイケルが好きな言葉だったよ」と、ティトが教えてくれた。

「FOLLOW YOUR DREAMS,
WHEREVER
THEY MAY LEAD」

「君の夢を追いかけなさい。そうすれば、どんなところへでも導いてくれる」

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小説「噂のメロディ・メイカー」より抜粋。