あらためてカサンドラを考える | 野波ツナブログ

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正確には「カサンドラ情動剥奪症候群」
英国の心理士Astonが提唱した。

カサンドラだった私自身が、体の病気・薬で治す病気とは異なるというつもりで
うっかり言葉足らずな杜撰な物言いをしてしまった時から
自戒をこめながらずっと考えていた。

病気=健康でない状態。心や身体に不調や不都合が生じた場合のこと。

そんな言葉の意味を取り上げるまでもなく、
原因があって、心身の不調が現れて、寛解の方法もある程度はわかっているのだから、
カサンドラがこころの病気なのはまちがいない。


しかしカサンドラは(まだ)正式に病名として扱われていない。
それをもって「ただの思い込みだ」と言う人も出てくる。
精神医学の手引きであるDMSは折々で更新されるにもかかわらず、
「DMSに載っていない」ことを根拠として「カサンドラという病は存在しない」と主張する。

しかしそういう視点こそがまさしくカサンドラの原因のひとつでもある。
カサンドラはASDのパートナーとの日常の関係性だけでなく、
訴えに対する周囲の人々からの
「あなたの感じている不調は思い込み、もしくは別の原因があるのだろう」
という無理解も重なって起きる病だからだ。


また、「最近はなんでもかんでも病気に仕立てる。医者(この場合多くは精神科医)が儲けたいから病名をつけるのだ」という意見もある。
(この意見は、古くはうつ病、最近は発達障害に対しても向けられることがある!)
しかしカサンドラの場合、精神科での治療もまだ追いついていない状態なので、これには当てはまらない。

とはいえ、病気なのか病気じゃないのかという議論は実はとっくに不要なところに来ている。
発達心理の分野でも注目されていて、一部の病院ではASD者の配偶者についての臨床研究や家族カウンセリングも行なわれている。



カサンドラを自覚している人や、家族会や自助会の参加者は増えているが、
そうした人たちの声はなかなか表に出てこない。
理由の一つとして、『誤解を恐れる』というのがある。

カサンドラのことを当事者以外でよく知っている人はほとんどいない。
説明されてすぐに理解できるのは隠れ当事者くらいのもので、
"コミュニケーションや社会性や想像力が著しく欠ける家庭生活”というのを経験していない人にそれを理解してもらうのは至難の技だ。

それだけならともかく、
「ASDが原因?」→「じゃあASDが悪者?」→「これはASDへの差別だ」 などと曲解される危険がある。
それはまったく当事者の望むところではない。

カサンドラの人は、ASDが悪いと言いたいわけではない。
自分のパートナーが自覚のないASDで、
コミュニケーションや社会性や想像力のズレから生まれるさまざまなストレスが長い間継続し、
周囲からも理解されず、
気づかないうちに心身が蝕まれていた、
しかも解決の糸口がなかなか見つからない
・・・という苦しさが存在するということを、誰かに知ってほしいと思っている。
それが医師やカウンセラーだったり、自助グループだったり、ネット上のつながりだったり、
何らかの形で理解が得られれば少しは救われる。
でも限られた世界でしかそれが叶わないというのでは閉塞感はなくならない。

カサンドラの人は往々にして、わかってもらえないことに慣れ、
自分の感情や欲求や意見を呑み込むことが日常的になり、
自己主張する気力が奪われていることが多い。
(経験上そんなことをしたら非難されるだろうと諦観してしまってる)

自分から外に発信しても
「夫とはそういうもの」「好きで結婚したんだからガマンしなさい」等々と一蹴され、
結果的に自分を責めることになるのはわかりきっている。
ましてや、心身の不調の原因は夫にある、とはとても言えない。
まるでひとりぼっちで夜の森を歩いてるような孤立感。


カサンドラという概念が世の中に正しく浸透すれば・・・
このしんどさを周囲の人に理解してもらえれば・・・
そうしたら、それだけで気持ちが楽になるという人がたくさんいる。
もしかしたら身近なところに、夜の森を協力し合いながら歩いていける仲間が見つかるかもしれない。

カサンドラの原因の一つである"他者からの無理解”が解消されれば
「さて、では夫とのことはどうしていくか。私はどうしたいのか、何ができるのか」と、
夫婦の問題に向き合う段階に進めるのではないかと思うのだ。