蕎麦の会社も辞めて貧乏な生活へ突入した。
削るのはまず食費だ。米を食べられればいいけれど、それも節約してパン耳を食べる日々だった。ネットで市内のパン屋を調べ、購入した。1袋10円とかで売ってくれた。それに100円のジャムをつけて食べていた。飽きないかって?米とは違い、物凄く飽きる。今でも見るのも嫌だ。
それでも腹を満たすために無理して食べていた。あるスーパーに入っていた大手のパン屋で1kgくらいあるのが100円で買えた。が、その後業者に売ることになったとかで売ってくれなくなってしまった。
あとは煙草。どうしても止められなかった。昔の会社時代、よく昼食を買っていた店でゴールデンバットを売っていたので、そこで2~3カートンくらい買った。当時1箱20本入り90円。しかもそこそこ旨い。
そうやって日々やり過ごしていた。
仕事の方は派遣で3社ほど行ったが、1件目は5ヶ月で解雇、2,3社目はよく判らない理由&仕事教えてくれないので何をしたら良いのか解らず、無能と判断されすぐ解雇。派遣だからすぐに仕事覚えて戦力にならないといけないのは解るが、そもそも仕事を教えてくれる人が居ないので、書類わたされても何をして良いのか解らなかった。いくら訊いても無言。
2社目を解雇された後、実家に強制的に戻され、父の監視下に置かれ、自由に外へ出られなくなった。パートでスーパーの荷出しをしたが、シフト制だったので時間もまちまちだった。いつもの時間と違う時間に行こうとしたら「どこ行くのよ!」と凄まれた。
スーパーでも無能扱いされ、なんとか1年くらい勤めたが、鬱であることを自白させられ、上司の耳に入り即解雇。鬱なら採用しなかったのに、と言われた。2000円分の商品券を渡され、はいさよなら。
そしてまたハロワ通いの日々だったが、田舎なので仕事がない。それで札幌の求人を探していたが、母には嫌な顔をされた。
そうこうしていると派遣会社からすぐ来てくれ、と連絡があった。慌てて部屋探して引っ越して。予定の2日くらい後からの出勤となった。これが3社目だ。
石狩湾新港にあったので、部屋も手稲の方に住んだ。そしてすぐ解雇されて、実家からの援助も打ち切られて、生活保護の日々が現在まで続くのだった。
正直手稲時代の記憶はほとんどない。逆流性食道炎になったことや、耳鼻科が日曜もやっていたけど、いつも混んでいて2時間は待たされたこと、太ってきたのでプールに通ったこと、自転車で病院(篠路)まで通ったりしたことを少し覚えている程度。
生活保護になってすぐ、民生委員の人がやって来て、缶詰などを差し入れしてくれたこともあった。
そしてなんとかしないと、と数ヶ月ほど経ってから思い立ち、近くの地活に行き、カウンセリングを受け、作業所を探し、今住んでいる近くの所に入った。しばらくは手稲から通った。JRのホームライナーというのがあって、100円多く出せば特急の列車に乗れて、手稲までノンストップ。ゆったりしてリラックスした時間だった。
それからなんやかんやあって、いろんなことをした、のはまたのお話。