聖アウグスティヌス(354-430) by ボッティチェッリ

 

 

今をサルこと34年前、当時大学3年生だった私は岩波文庫の聖アウグスティヌス(聖アゴスティーノ)『告白』(上下全2巻)を買った。↑の写真。

当時、私は卒論のテーマにした森有正という思想家(前にも書いたが)の本を読んでいて、その中に、パウロ、アウグスティヌス、パスカルの三人のアンチキリスト者のキリスト教への「決定的回心」に関する論文があり、当時バリバリの(死語?)アンチキリスト者だった私はその「決定的回心」という出来事、というかその「奇跡」に興味を持った。

 

パウロの回心については、聖書にサラっと、しかし劇的に書かれていた。古代ローマの市民であり、ユダヤ教徒としてキリスト教を残酷に迫害していたパウロだったのだが、イエスキリストの裁きにより、目に鱗がついたため目が見えなくなっってしまった。しかしイエスに贖罪されて、目から鱗がポロっと落ちて開眼し、回心して洗礼を受けた。???え?ギャグ?(後に、この聖書のシーンが「目から鱗」の語源であることを友人に教えてもらった。)まあ、いいだろう。当時私は近視のためコンタクトレンズをして、時々コンタクトレンズが目から落ちたことがあった。しかしコンタクトレンズがないとそもそも目が見えないので、落ちたコンタクトレンズを探すことも出来ず、下手に探し回ると落ちたコンタクトレンズを踏んずけてしまいそうで、その度に絶望したのだが、そんな時、私の近くにいてコンタクトレンズを発見してくれた人は本当にメシア(救世主)!だと感じた。その逆のことがパウロに起こったと思えば納得できた。メシアのお陰でコンタクトレンズを洗って再び目に入れると...

正に!開眼!!

 

カ・イ・ガ・ン...

 

パスカルの回心については、森有正がその著書で詳しく書いていて、以前このブログでも紹介したので割愛する。

https://ameblo.jp/non-saitama/entry-12254037814.html

 

で、残る一人、アウグスティヌスの回心について。その著作『告白』にその詳細が語られているということで買ったのが上の写真の岩波文庫。34年経っても真っサラ!綺麗でしょ!

大学生の頃に買ったはいいが、上巻の前半数ページで挫折した。平易な文章なので、翻訳文が悪いわけでもないようなのだが、最初は延々と祈りの文章が続くのと、聖書からの引用が随所に出てきて文脈が読み込めず早々にギブアップ!苦笑 その後、大学の頃に今一度挑戦したがまたしても早々にギブアップ!泣

大学を卒業して東京に就職が決まった時、もう再度挑戦することもないだろうと、大学の頃に読んだ一切合切の本達と一緒に実家に送り付けた。なので、いまだ真っサラで綺麗です!

 

しかし昨年、突然、正に突然、どうしてもこの『告白』を読破しなければならないという使命感にかられ、実家の蔵の奥底に眠っていたこの岩波文庫を発掘し、気合を入れて読み始めた...。が、またしてもギブアップ!号泣

少し前までの私は興味をそそられると直ぐに本を買ってしまう性癖があったため、読んでいない本をたくさん所有する所謂「積読」派なのだが、私をここまで挫折させた本はこの『告白』が唯一無二。

とはいえ、『告白』は、カントの言う「定言命法」(目的や手段のためではなく無条件に~すべし!)のように、私にとって、どうしても読まなければならないものに思われた。

 

そんな折、今年の初め、友人から、昨年末刊行された岩波新書出村和彦著『アウグスティヌス~「心」の哲学者』を教えられ、勧められた。早速買って読んだ。

 

 

この本がアウグスティヌスの生涯と思想を素晴らしく端的に解説した内容で、これによって私は一気にアウグスティヌスの『告白』のパースペクティブを見通すことができた(と思うよ。多分)。

それで早速、難攻不落の『告白』を読み始めた。

相変わらず、冒頭から続く長い祈りの文章の晦渋さと聖書の引用に難儀はしているが、この1年でそれらの言葉にだいぶ慣れ親しんだこともあり、かなりの遅読ではあるが、聖書(引用が多いからね)を片手にボツリボツリと読み始めた。

本当は今年の3月31日までに読み終わりたかったのだが、遅読すぎて叶わず。今まだ、アウグスティヌスの『決定的回心』の叙述まで至っていない。5世紀初頭の古代ローマで書かれた書物を21世紀の極東日本の私が読むのだから、『古事記』を現代のイタリア人が読むようなものだ。歴史的にも地理的にもかけ離れているので、文脈を辿りながら呑み込むのに時間がかかるのは致し方ない。

 

しかも、アウグスティヌスの叙述は実に多弁で細かい。もともと彼は聖職者ではなく、弁論学者だからかもしれないが、幼少期の些細な出来事がありとあらゆる表現を駆使して延々と語られる。同じ『告白』というタイトルで書いたルソーの『告白』は18世紀に書かれ、自然主義文学の起源となり、のちの19世紀の日本において「私小説」というジャンルを生んだのだが、本質的な違いはさておき、アウグスティヌスの『告白』も日本の「私小説」に匹敵するほど、一見どうでもいいような些細なことが、これでもか!と言うほど語られる。やれ、泣き叫びながらオッパイを欲しがっただとか、学校の先生が嫌いで、勉強が嫌いで、特に外国語が苦手だったとか(おお、親近感!って英語ではなくギリシャ語なのだが)、競技や見世物に熱中し遊び呆けたとか、それによって虚栄心を身に着けたとか、空腹のためではなく虚栄心のため梨を盗んだとか、とか...。

 

正直に言うと、私はこの投稿のテーマは決めているのだが、着地点は定めずに書いている。ブログタイトルを「とりあえず①」としたのは、この後、②以降がが書けるかどうか自信がないためだ。

現在、『告白』上巻の3分の2あたりを読んでいる。アウグスティヌスは幼少期、敬虔なカトリック信者であった母モニカからキリスト教の教えを授かり親しんだが、やがてキリスト教から離れ、マニ教に傾倒していく(マニ教について興味のある方はググってね。なんだかとても厄介な宗教なので、ここで説明はしません)。上巻の真ん中あたりで、ローマで弁論学教師をしていたアウグスティヌスは帝都ミラノの弁論学教授に抜擢され(古代ローマ末期、西の帝都はミラノ。当時はメディオラヌム[ラテン語で、平原の真ん中という意味らしい]と呼ばれた。アウグスティヌスは帝都メディオラヌムの知事の座に就くことを画策していたと言われている)、ミラノのカトリック教会で司教アンブロジウス(のちに聖人、聖アンブロージォ)の説教を初めて聞く。その時、キリスト教の霊的直観を受け(「文字は人を殺し、霊は人を生かす」第二コリント3.6)、幼少期に母モニカから授かったキリスト教の霊的な体験を思い出し、聖霊に満たされ、キリストの神を見出し、それまで傾倒していたマニ教から離れる。ここまでで彼は99%回心している。しかし、ここから残り1%、彼の中で長い長い思想的葛藤・対決が始まり、なかなか「決定的回心」まで至らない。彼の思索は三歩進んで二歩下がり、私の読書もその中を更に三歩進んで二歩下がるから、なかなか進まない。一体いつになったら「決定的回心」に至ることやら。

 

なので、いつこの投稿が途絶えてもいいように、アウグスティヌスの生涯を概観・紹介しておく。

 

354年、北アフリカの町タガステに生まれる。父は異教徒パトリキウス、母は敬虔なカトリック信者モニカ(のち聖人)の長男として生まれたが、カトリックの幼児洗礼は受けず、洗礼志願者となる。

少年期に放蕩を繰り返すも、ラテン語古典の学業に優れ、弁論術教授を志す。

19歳、哲学教授も志す。この頃、カトリックに疑問を抱き、異教であるマニ教に傾倒する(ただし、カトリックの洗礼志願者のまま)。

20歳、タガステで文法学教師となる。

22歳、北アフリカの大都市カルタゴで弁論学教師となる。

29歳、ローマで弁論学教師となる。母モニカ追ってくる。

30歳、帝都ミラノの弁論学教授に抜擢される。カトリックミラノ司教アンブロジウスと出会う。母モニカついてくる。笑

32歳、カトリックに回心。弁論学校辞職。

33歳、司教アンブロジウスから洗礼を受ける。その後、母モニカ死去。

34歳、故郷タガステに帰る。マニ教論駁に着手する。

37歳、北アフリカのヒッポに旅行に行き、そこの教会を訪ねた時、待ち構えていた教会の司教とその信者達に捕らえられて、いきなり教会の司祭に任命される。

42歳、司教となる。

43歳、『告白』を書き始める。

46歳、『告白』全13巻が完成。

 

その後、司教として宣教を行いながら、膨大な著作を執筆する。

 

72歳、司教職引退。主著『神の国』全22巻完成。

73歳、自身の全著作93篇232巻の全集の編纂に取り掛かり、全著作を年代順に並べ、その一つ一つに注釈をつけた『再考録』を完成。

75歳、ヴァンダル族、北アフリカに侵攻。

76歳、ヒッポ、ヴァンダル族に包囲されるなか、死去。

 

以上の年譜から明らかなように、『告白』はアウグスティヌスの43歳から46歳に執筆された著作。キリスト教を離れた放蕩息子がキリスト教に帰郷=「決定的回心」するまでの半生の精神的・肉体的葛藤の告白である。

 

まだ私は『告白』の「決定的回心」まで至っていないが、彼の「決定的回心」への葛藤とは例えば、精神と肉体との二元論の葛藤と思える。それは、それまで彼が傾倒していたマニ教(善悪二元論)やアカデミア派(懐疑哲学)を、彼が霊的直観によって(聖霊に満たされて)認識した最高善、唯一神としての神の絶対性によっていかに克服するか、ということであった。

換言すると、神は最高善であり、この世に善なるものしか創造していないにもかかわらず、光と闇、生と死、善と悪、愛と欲望(情欲)、使命と義務、というような背反する二つの物がどうして存在するのか、ということである。

彼の霊的直観では、闇は光の中に、死は生の中に、悪は善の中に、欲望(情欲)は愛の中に、義務は使命の中に、不完全な状態として存在すると考えているようである(今のところ)。

不完全な状態を生じさせているのが、原罪によって生まれた人間の「自由意志」。アウグスティヌスの「自由意志」の思索は実に悩ましく、たどたどしく、難解で、私に熟読・熟考を強いる。

 

ところで、アウグスティヌスは「自由意志」自体を悪とは考えていない。「自由意志」に対する人間の態度を問題としている。そんな「自由意志」に対する態度ということで私が思い出すのはカントとニーチェ。

カントのsollen(~をすべき)は善への「自由意志」に対する態度の問題であるし、ニーチェのwollen(~を欲す)も生への「自由意志」に対する態度の問題である。カントとニーチェの思索の中にアウグスティヌスの「決定的回心」までの思索を見るのは私だけであろうか。

 

いやいや、先を急ぐまい。もっとしっかり『告白』を読み込もう。

 

本稿(とりあえず①)は以下の『告白』の冒頭のアウグスティヌスの言葉(祈り)を書き留めて、終わります。

人間は「自由意思」を持つ。しかし、以下のことは、どうやら確からしい。懐疑主義者であったアウグスティヌスも私も、この言葉(祈り)の外に出ることは出来ないように思われる。

 

 

「人々は、まだ信じないものを、どうして呼び求めるであろうか。また宣べ伝える者なしに、どうして信ずるであろうか。主をたずね求める者は主をほめたたえるであろう。たずねる者は主を見出し、見出す者は主をほめたたえるであろう。

主よ、わたしはあなたを呼び求めながら、あなたをたずね、あなたを信じながら、あなたを呼び求めよう。あなたは、われわれに宣べ伝えておられるからである。主よ、私の信仰があなたを呼び求めるのである。わたしの信仰は、あなたがわたしに与えられたものであり、あなたがあなたの御子の受肉とあなたを宣べ伝える者の奉仕によって、わたしに注ぎ込まれたものである。

 

わたしの呼び求める神は私のうちにあり、神を呼び求めるわたしは神のうちにある。

 

つづく。かな...