悲願へ 20 | 野村孝博のブログ

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 続きです。

 

 新たに「今は家族との付き合い方も形骸化しているように見受けられるが、どうでしょう。」という質問になりました。著者は「自分が好かれたい」、「幸福になりたい」ということが原因で、本当の「人間づき合い」が出来なくなっているとのことでした。著者は父親との関係性に触れていましたが、私も仕事で父親とぶつかることが多く、出来るだけコミュニケーションを避けるようになっていました。これはまさしく形骸化で、以前から反省しておりましたが、更に反省させられました。著者は父親とうまくやることが出来ず、子供に合わせるようなこともなく、子供には「自分らしく生きればいい」、「立派な人間になってもらいたいと思っているだけ」ということでした。また「特に子どもに幸福になってもらいたいと思ったら、自分の人生は終わる。子どもはきついよ。」ともありましたが、この辺りはちょっと理解しきれておりません。「幸福」とは他人にそうなってほしいと願う概念だということですが、子どもは他人ではないから、それを願ってはいけないということなのかもしれません。幸福になってほしいと思う度合いがゼロか一かではなく、自分をゼロにして、自分から対象の人が遠くなっていくにつれて一に近づいていく、つまり子供は非常に近いので、限りなくゼロに近いのではないかと解釈しました。

 

 質問が変わり、「平和」についての話になります。質問者は戦争と戦争の間、一つの強国あるいは連合国が他国を圧倒して逆らえないときに得られるものが「平和」と考えてよいのかと訊き、著者はその通りだと答えました。そして、松下幸之助も、自らが提唱した「平和」については、同様に理解していたということです。そこから左翼、右翼の話になりましたが、日本における左翼は言葉自体が違っていて、日本においては「文句屋」だとありました。これはまさしく言い得て妙で、「人生に文句のない人などはいない。それを国や人のせいにするか、しないかの問題です。」とあり、更に膝を打ちました。しかし、右左どちらだどうというのではなく、人間は自由な考え方を持っており、それを説得しようという考えがよろしくないとのことでした。「真の人格者はというのは、他人にすごく甘い。そして自分に厳しい。」ともありました。道徳は自らを戒めるもので、他人に押し付けるのはダメだとのことでした。他人に語るのは「思想」でなければならないそうで、要は「私はこう考えます」ということでしょう。「私はこう考えているので、あなたはこうしなければならない」なんて言うのはダメなのでしょうね。極端な例では、ヴィーガンと言われる方々が、自らの食事を制限するのはよいのですが、その思想を正義として、牛乳店で商品を破壊するような行為はダメだということでしょう。これは我ながら分かりやすい。

 

 まだまだ続きます。