*随想 年賀状の差出人の順番を変えて「反乱した!」と言うけれど…   | のむらりんどうのブログ       ~君知るや ふたつの意識~

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2002年9月22日の早朝。目覚めて布団の上に起きあがった瞬間、私は「光の玉(球)」に包まれたのです。以来、「自我」(肉体と時間に限定されたこの世に存在する私)と、「真我」(肉体を超えて永遠に宇宙に実在する私)の、ふたつの意識を持って生きています。

 

 

 

         そうか、そのように考えている女性がいる

       のか―― と私は思った。そして、その「声」

      が朝日新聞(2022年12月11日付朝刊) 載ったの

      です……

 

 その内容は、書き始めた年賀状の「差出人」のことで、アタマに来る!というのです。

 つまり毎回、最初に「夫の名」、次に投書者ご本人である「妻の名」……と無意識に書き進むのですが、どうして「その順番なのか?」という、私からみれば他愛のない質問なのですが、ちょっと考えてみます。

 

 結論からいえば、今年は「妻の名を先に書いた」ことで、「心地よい違和感」が得られた、と言われているのです。ご本人がそう言うのですから、それはそれで構わないのですが、私自身はその「心地よい違和感」に反して、失礼ながら「本来の違和感」を感じてしまったのです――。 

 

                (記事を引用させてもらいます)

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  (声)  妻の名を先に、心地よい違和感

 

            医師 中尾佳奈子(東京都 42)

 

 今年も年賀状を書く季節になった。家族4人の差出人名を書く段になって、はたと手が止まった。なぜ毎年、無意識に夫が先頭、次を私の順にして来たのだろう。職業も同じ、家事育児も平等に分担している私たちなのに。年始に受け取った年賀状を見返すと35家族中、妻の名前を先頭にした年賀状は1通もなかった。

 

 振り返れば、勝ち気な私の小学生の頃のあだ名は「おとこ女」。中学1年で男女1人ずつの学級委員長に選ばれ、2人で司会と書記をやるよう言われて迷わず司会をやると、50代の女性担任が「女子が司会をしたのを初めて見た。今まで何も言わなくても男子が司会、女子が書記だった」と口をあんぐりさせていた。

 

 そんな「とりかえばや物語」を地で行く私。それならばと、今回の年賀状は私が先頭、次を夫にしてみた。その小さな違和感が心地よかった。

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 「迷わず司会をやれた」と中尾さん。そうですか。大成功でしたね!

 

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   では、ここから私のちょっかいです。聞いてください。

 

 <矢面に立つ>という言葉がありますね。言うまでもなく「敵の矢が飛んでくる正面に立ちはだかる」と辞書にあります。つまり、みずからの集団が危険な場面に陥ったとき、自身が敵の正面に立って防御し、かつ相手を攻略することです。

 

 歴史を振り返ってみると――。人間集団の争いだけでなく、生きていくための狩猟などに関しても、男はその役を担って来ました。一方で女は、とくに母親は自身と子どもをかばいながら木陰に、陣後に控えたのです。そこには「男権」も「女権」もありません。部族の「生命」を守るにはどうするのが一番よいか、ということでした。

 

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 翻って現在、私たちの周囲を眺めると――。役所で扱う書類、つまり戸籍謄本や住民票、はたまた学校や医療関係の書類にいたるまで、文書は例外を除き「男性が先」「女性が後」となっています。

 

 これは明治以来、官制機関に関する規程によって、「男性」→「女性」の順と決められました。その後、世間ではほとんどがこの規程にもとづいて運用されて来た(いる)のです。

 

 注意すべき点は、当然のことながら「男性」優先、「女性」劣後、といった差別的な意味はなく、区別をするために採用されていることは自明の理です。この世に「男・女」といった二項並列(または対立)が存在している場合、同時に列挙することは不可能です。そこでやむを得ず一方を「先」、もう一方を「後」という方法を採り、便宜的に運用するだけの話です。

 

 そこで、あえてその「意味」を探すとすれ、こんなことが考えられます。身体的な特長に加え、歴史的、民俗的、宗教的な「意味」が付随してくるかもしれません。しかし、それは人間の「核心的な生存」には全く関係のないものです。したがって、先に「女性」、後に「男性」となってもいいわけです。ただ歴史上の慣例に従っているだけです。

 

 最近は学校のクラス名簿でも「女性」が先、「男性」が後、というところがあるようです。事が「二項並列」の場合は、どちらかに決めないと先に進めません。この世はニュートン物理学の世界(静止状態)であって、素粒子が飛びかう量子力学の世界(位置が決定しない運動状態)ではないので、そのようにしなければ解決できない。

 注 このあたりのことは、以前(随想58~62、「学校の男女別名簿」)に書いています)

 

 

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    叫ぶなら「女男同権を!」でしょう

 

 女性運動家らが「男女同権を!」をめざすとき、どうして「女男同権を!」と叫ばないのでしょうか。まず、そこから意識を変えなければなりません。現実を踏襲した上での改革ではなく、新規の改革をはからないと。しかし考えれば、ウーマンリブ運動というのは目先の掛け声だけだったように見えます?(失礼) 良識ある女性は遠くから微笑んでいました。

 

 そこで言えることは、「男→先、女→後」となっていることを、まるで「差別ではないか」と捉えて問題にする人たちは、人類の発展段階から勉強し直し、考えることでしょう。

 いま注目されているハラリの『サピエンス全史』などを読めば、多くのことが理解できます。男が女を差別しているのではありません。男女の性差による行動をもとに、より安全を担保するための方策にすぎないのです。眼前の危険に対して、男は女を守ろうと行動したにすぎません。知恵ある女性はこう言ったのです。「男性方よ、どうぞ先頭を歩いて私たち女性を守ってください」と。「優・劣」などつける問題ではないのです。

 

 そして、人間も生物界における「種」です。当時の思考はこうでしょう。

 

   男は死んでも仕方ない、

     しかし女を死なせてはならない!

 

 人間が生きていくための「狩り」は男の仕事でした。なぜか。

 それは女性にくらべ男の方が俊敏で屈強だから、という体力的な点もありますが、生物界では「女性」を失ってはその種は絶滅するのです。極端な話、部族が襲撃されて女性がただ1人生き残ったとしてもそれはほぼ全滅と変わりはなく、その種族は消えてしまいます。しかし、男性は100人中1人でも生き延びればその種は永続する可能性が大なのです。

 

 

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 「男」が先、いや「女」が先――

 そんなことに意味を見いだすのは愚の骨頂だと、私は思います。

 

 「それはあなたが男だからだよ」というのなら、もし私が女だったらこういうでしょう。

 「男性方よ、その多くをあなた方に任せます。決して女を泣かせるようなことをしないように。私たちは子を産み育て、未来に向かっていきます。名簿は「男」が先、「女」が後で結構です。しかし、男性のあなた方の責任は重大なのです。自覚してくださいよ。

 

 

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 中尾さん、一矢を報いましたね。ただ私が心配なのは、「主人の座」から滑り墜ちたご主人が「周囲に顔向け出来なくなった」と言って気落ちされ、病気にでもなられないように祈るだけです。他人はどういう反応を示すか分かりませんが、やはり「常識」にもとづく感覚を大切にすべきだと私は思いますが……。

                   

 「とりかえばや物語」も結局は、なにも“解決”されたわけではないのです。「男姿」も「女姿」も“化生の生き方”として文学に示されただけの話です。それはそれで理解できるのですが、それはむしろ中尾さんの生き方に反しています。へたをすれば、現実世界では蟷螂の斧のごとくに揶揄されるやもしれませんよ。

 

 

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  最後に言っておきます。

 

 

 「男性」と「女性」は、対立するもの

  ではなく、睦み(むつみ)あうものです。

 

 

 「男女同権」「女男同権」――これは当たり前の概念です。こんな言葉をいつまでも叫んでいるようでは人間の進歩はありません。

 

  意識を変えないと。

   

 

                                                        (記 2022.12.13 令和4)