§哲学(1) プラトン、三島由紀夫いわく「音楽は恐ろしい」 | のむらりんどうのブログ       ~君知るや ふたつの意識~

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2002年9月22日の早朝。目覚めて布団の上に起きあがった瞬間、私は「光の玉(球)」に包まれたのです。以来、「自我」(肉体と時間に限定されたこの世に存在する私)と、「真我」(肉体を超えて永遠に宇宙に実在する私)の、ふたつの意識を持って生きています。

 

 

 

                         音楽は、自我と真我の「架け橋」のはず

 

    「音楽は恐ろしい」という先達がいます。偉大な哲学者プラトン、

  小説家三島由紀夫がそう言うのですから、耳を傾けざるを得ません。

    しかし私は、そうは思わないのです。ふたりの考える地平の果てに

  は、いったい何があるというのか。

   そして私は、「真我意識の有無」にその違いの理由を見つけたの

  ですが

 

 

  ♦ プラトンの音楽観

 

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『他力』 五木寛之(講談社文庫)から

 

   ギリシャの哲学者プラトンは、音楽はある意味で恐ろしいものだと

  言いました。それは、音楽や芸能のすごさは、哲学と違って、主体的

  な働きかけがなくても、意識的に聞いているつもりではなくても、知

  らず知らずのうちに、聞いている人間の感受性を変えてしまうところ

  がある。そして人間は、感受性が変わると思想も、そして行動も変わ

  るからだ、と言うのです。

   つまり、その人間の感覚が変わることで、周囲の法律や社会や政治

  体制に対して、ふと異和感を感じたり、納得がいかなくなったりして

  くる。そこからさまざまな問題が生じてくる。ですから、プラトンは

  音楽は恐ろしいものとして語っていたのです。

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➡果たしてそうだろうか。

 

「音楽はある意味で恐ろしいものだ…知らず知らずのうちに、聞いている人間の感受性を変えてしまう…。感受性が変わると思想も、そして行動も変わるからだ」「人間の感覚が変わることで、周囲の法律や政治体制に対して、ふと異和感を感じたり、納得がいかなくなったりしてくる。そこからさまざまな問題が生じてくる」――。では、どうして、思想や行動が変わってはいけないのか。それは自我の世界以外の世界を見ようとしない行為ではないのか。それとも人間の自身の主体性が喪失する、とでもいうのだろうか。コワモテである自分がヤワになってしまう、とでもいうのだろうか。

そして、「そこからさまざまな問題が生じてくる」――具体的なことは書かれていないが、音楽を聴いて「さまざまな問題」を発見すれば、それはそれで良いことではないか。少なくとも「聴かない」よりは。人智の勝利でもある。

 

そのプラトンの「音楽論」について五木さんは是とも非とも言わない。音楽は、五木さんがバックグラウンドとする浄土教の「他力」とも共通するのではないかと考えるが。

「宗教は音楽である」、そして「音楽も宗教である」と私は思う。その意味で、「音楽は恐ろしい」ものであるのかもしれない。しかし浄土教では、この世では知ることのできない神秘の世界「極楽浄土」への誘いのツールとして音楽を利用しているのです。

たとえば、和讃や、東本願寺の法要・報恩講でなされる「坂東曲(ばんどうぶし)」、あるいはカトリック教会のミサ曲などで集団を統べる「宗教歌」があります。人間と宗教が切り結ぶとき、たしかに「音楽は恐ろしく」、その音の行方を考えてしまう。だから私は「宗教を超えよう」と言っているのです。

 

かといって、音楽を否定すべきではありません。音楽は愉楽であり、自我の世界に「在る」ものです。この世の価値観から自由なる「真我」は、それをコントロールするのです。

 

 

    三島由紀夫の「音楽」観

 

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  『三島由紀夫の言葉 人間の性(さが)』

  佐藤秀明編(新潮新書)から

 

    音楽というものは、人間精神の暗黒な深淵のふちのところで、戯れ

   ているもののように私には思われる。こういう怖ろしい戯れを生活の

   愉楽にかぞえ、音楽堂や美しい客間で、音楽に耳を傾けている人たち

   を見ると、私はそういう人たちの豪胆さにおどろかずにはいられない。

   こんな危険なものは、生活に接触させてはならないのだ。

                    「小説家の休暇」(講談社)

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 ➡果たしてそうだろうか。

 

 「音楽というものは、人間精神の暗黒な深淵のふちのところで、戯れているもののように私には思われる」――辛辣な三島の言葉です。

 

 人間精神は「不立文字」。音楽もしかり。プラトンも三島も「音楽」を否定します。しかし、その思考は現実世界の力、エネルギーのみの価値観に偏ってはいないか。それは「渇き」であると私は思う。

 

三島には何かが足りない。筋肉を鍛え、強靭さと武勇に親しむ三島の内面を見るとき。『豊饒の海』をものした三島には似つかわしくない。「音楽」と「場」を多分に意識しているはずだが。「天皇」を意識する三島にとっては、それは「寛仁大度・慈愛の神」ではなく、「軍神」としての天皇崇拝なのかもしれない。

 

ただ、「音楽というものは、人間精神の暗黒な深淵のふちのところで、戯れているもの…」については同意できない。「人間精神の光輝な浅瀬にあって戯れていても」おかしくはない。これについては、美輪(明宏)さんの意見を聞いてみたいものです。

 

 

                          (記 2020.6.13 令和2