「必要不急」の用事があってバスに乗りました
「不要不急」にあらず「必要不急」の用事があり、豊洲まで出かけ
ました。「至急」の用事ではないのでもう少し待てば良いのですが、
今のところコロナ感染にともなう“外出禁止解除令”が出る気配も
ないので、小池百合子知事には申し訳ないと思いつつ、妻とふたり
で出かけたのです。
ここ2カ月ほどは家にこもりきりで、外へ出るのは近くのスーパーか書店、それに郵便局での振り込みくらいのものです。したがって、外食はゼロ。おかげで? 私の「福沢諭吉先生」は財布の中で眠ったまま。そんな状況ですから、バスに乗って20分ほどの豊洲行きはまるで“遠足気分”にさせてくれました。
バスを降りると、別世界のような高層ビル群が威風堂々とあちこちに立ち並んでいます。がっしりとした大きなビルはビジネスの本拠であり、点在するタワーマンションにはそれに従事する人たちの家庭があるのでしょう。
手短かに用事を済ませると、海に向かう浜辺に出ました。すこし暑いくらいでしたが、潮風が顔をなぜて行きます。ああ、涼しい。なんと気分の良いことか。
東京湾に面したこの浜辺でさえこれほど心が癒されるのですから、静かな地方ではその比ではないでしょう。山脈や湖沼、水源や川、草原に湿原、そして森や林……これらが私たちに与えてくれる自然は言葉にはあらわせないくらい、ありがたいものです。
昼食時になったので、そこを離れ、来た道を戻りました。そしてビルの中にあるレストラン街に入ったのです。予想はしていたのですが、数十軒はある店のうち、わずか数軒だけが営業していました。綺麗な造りの蕎麦屋があったので、暖簾をくぐり、妻は「海老天ざるそば」私は「アサリそば」と生ビールを注文。いやはや久しぶりの外食に、うれしい時間でした。
それはそうと、店内の様子がいつもと違います。客席は4人が向かいあって座る椅子席で10席ほどあるのですが、なんと席のぐるりには天井から足元まで大きな幕が吊り下がっているのです(接客のため、一方だけ幕がなく開いています)。
例えれば、病院に入院したときの4人部屋とか6人部屋の病室に入ったような感じです。幕が病院のカーテンのような白色だったらまさにそっくりなのですが、さいわい朱色だったので気分は滅入らずにすみました。窮屈な感じは否めませんが、この時期、他人との接触を避けるために考えた“装置”ですから、拍手は送っても文句は言ってられません。
しかし、考えるものですね。この状況のなか営業しようとすれば、これくらいのアイデアを出さないとダメなのかな、と感心したり、苦笑したり……。日本人はすごい。
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ところで、自宅蟄居を余儀なくされる「コロナ」ですが、
改めて思い知ったことがあります。
「コロナを避けながら、人間はなぜこの世に生きているのか。その目的は何か?」と。
仏教ではこう言っています。「目的などない」とか「それは修行のためである」とか。死んで「解脱」をしなかった霊魂は輪廻転生でふたたびこの世に生まれ、“修行”を経て、しかるべきところへまた生まれ変わると。そこは「極楽浄土のこともあれば、地獄のこともある」と。
そこで、今回の「コロナ」に際会し、私が改めて思い知ったことはこうです。
いやいや、「この世こそが極楽浄土である」という確信です。
「コロナで苦しい目に遭っているのに、なにが極楽浄土か」「極楽浄土であるなら、どうしてこんな苦しい思いをしなければならないのか」という怒りの声が聞こえそうです。そらそうでしょう。「四苦八苦」は、釈迦をも悩ませた問題ですから。
それについて、私のひらめきはこうです。それは人びとが「他力」でいるからです。すべての人が「自力」の意識をもてば、この世から争いはなくなり、極楽浄土となるのです。「他力」は自我意識から生まれ、「自力」は真我意識から生まれます。
「極楽浄土」は向こうにあるのではありません。目の前にあるのです。せっかく「極楽浄土」のこの世に生まれているのに、それに気づかず、自覚しない人間自身にあるのです。
海を見て、空を見上げて、煌めく星を見て、富士の山を見て、山脈を見て、冷たい山水を口にして、美しい木々や草花を見て、さえずる鳥の鳴き声を聞き、動物の走るすがたを見て……私はこの世が「極楽浄土」であり、「天国」だと、最近つくづく思います。それを毀してはいけない。
「コロナ」禍で解ったこと。私たち人間はウイルスと共存していくしかない、という現実。となればなおさら、人間同士がどうして「戦う」という愚を続けるのか。生きているだけで、ありがたいはずなのに。
(記 2020.5.18 令和2)