♦ニュースから(56) ノムさん逝く 丹後が生んだ日本プロ野球界の雄 | のむらりんどうのブログ       ~君知るや ふたつの意識~

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2002年9月22日の早朝。目覚めて布団の上に起きあがった瞬間、私は「光の玉(球)」に包まれたのです。以来、「自我」(肉体と時間に限定されたこの世に存在する私)と、「真我」(肉体を超えて永遠に宇宙に実在する私)の、ふたつの意識を持って生きています。

 

 

  努力家、勉強家、漫談家、愛妻家……すべては我慢と辛抱強さ

 

  「ノムさん」と呼ばれた元プロ野球選手・野村克也さんが亡くなった。

  84歳。京都府竹野郡網野町(現:京丹後市)出身で、峰山高校から

  プロ野球界に入り、選手(捕手)・コーチ・監督、野球解説者・野球

  評論家などをつとめ、野球はもとより人生論など多数の本を残し、タ

  レントとしてもテレビなどで活躍した。

   プロ野球では南海、ヤクルト、阪神、楽天の監督を歴任し、日本体

  育大学客員教授なども務めた。選手としては、史上2人目の三冠王達

  成(世界のプロ野球史上初の捕手による三冠王)に輝いた。

 

 

   そんなノムさんについて、朝日新聞がその死を悼み、社説に取り上げ

  たのです。人徳でしょう、めずらしい。そこで、その記事を引用させて

  もらいます。         (2020213日付朝刊から)

 

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 (社説)    ノムさん死去 月見草の知的な野球術

 

 あのぼやき節をもう聞けないことを残念に思う人は多いだろう。球界に大きな足跡を残して野村克也さんが亡くなった。

 

 契約金ゼロのテスト生から戦後初の三冠王に輝いた。脚光を浴びる長嶋茂雄さんや王貞治さんをヒマワリに、当時は人気薄だったパ・リーグに所属する自らを月見草にたとえた。対抗意識と尽きぬ向上心、鋭い観察・分析力が持ち味だった。

 

 指導者としての力量も傑出していた。3度日本一に導いたヤクルトを含め、低迷するチームの再建に尽力した。監督としての最多敗戦数1563は、勝利数1565とともに勲章だ。社会人野球の監督も務めた。

 

 「野球は頭のスポーツ」が信念で、精神主義や根性論を排した。データをまとめ、膨大な数字の集積から相手の一歩先をいくことを心がけた。

 

 「くさいところを攻めろ」といった、どうすればいいのか実は分からないことを言う監督は多い。野村さんは違った。

 

 「1球目はこう、2球目はこう。3球で勝負。それで打たれりゃ、しゃあない」。明確に指示を与え、責任を引き受ける。問われれば、打者心理を含めて理由をしっかり説明する。薫陶を受けた古田敦也さんは、日本を代表する名捕手となった。

 

 その眼力は、選手の隠れた力を引き出すときに一層さえた。くすぶる選手をよみがえらせ、「再生工場」と呼ばれた。

 

 南海の監督当時、血行障害で長いイニングを投げるのが難しくなった江夏豊さんを、リリーフに転向させたのが始まりだ。先発完投が理想だった時代に、実績がありプライドをもつ江夏さんに理を説き、「配置転換」を納得させ、プロ球界が分業制に移行する契機となった。

 

 失敗もあった。ヤクルトを率いて初の日本一になった93年、前半の快進撃を支えたのは新人投手の伊藤智仁さんだった。だがひじと肩を痛め、選手生命を縮めることになった。

 

 フォームに改良の余地があると思いつつ、疲れがあっても我慢してしまう生真面目な1年目の選手を使い続けたことを、野村さんは深く悔いた。その後、選手一人ひとりの性格にまで分け入って個性を伸ばす指導は、さらに深化したように見えた。

 

 野村さんが人気を集めた理由には言葉の豊かさもあった。多くの本を読み、ときに古典を引用しながら、選手の感覚や思考を平易な言葉で伝える解説は秀逸だった。野球の新たな楽しみ方をファンに教えてくれた。

 

 今や日本代表チームを始め、各球団の監督・コーチに野村さんの指導を受けた世代が名を連ねる。先達がまいた種を、大きく、豊かに育ててもらいたい。

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                 +

 

 試合後、テレビに映る野村監督は、いつも飄々として、綾小路きみまろも舌を巻く? ような“漫談”を言い放っていました。審判に食ってかかるような姿はついぞ見たことがありません。

 

 3歳のとき、父親を戦争で(?)亡くし、母親の手で育てられたといいます。テレビの回顧映像に少年野球チーム時代の写真が映っていました。写真の中の仲間はみなユニホームを着ていましたが、ノムさんだけが白の薄いトレパンとシャツ姿でした。ユニホームを買ってもらうことは叶わなかったのでしょう。悔しい思いをしたに違いありません。しかしそれにめげず頑張ったことがハングリー精神を培い、愛される人「野村克也」を誕生させたのではないでしょうか。

 

 もうひとつ、テスト生で入ったプロ野球・南海ホークス入団後1年目の最後に深刻な場面がやってきました。球団課長から解雇を言い渡され、クビになりかけたのです。その時、ノムさんはこう言ったそうです。「わかりました。もう生きていてもしょうがないので、帰りに(南海ホークスの親会社)南海電鉄の電車に飛び込んで死にます」と。はたちそこそこの年齢で、解雇を思いとどまらせたその言葉。頭の回転、機転がすごい。

 

その後の活躍は見ての通りです。野村監督は努力家、勉強家であり、我慢強さ、辛抱強さは並みのものではありません。同じ京都府出身で、「ノムさん」と呼ばれることのある私。爪の垢を煎じて飲まねば…。

 

 

                             (記 2020.2.13 令和2