目の前のことに対して、養老教授はいろいろと論評されます。
たとえば、こういう項目がありました。
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神より人間
経済を「実」と「虚」に分ける考え方は、どこかこれまでに述べた「意識と無意識」「脳と身体」「都市と田園」といった二元論に似ていることに気づかれたかもしれません。その通りで、私の考え方は、簡単に言えば二元論に集約されます。
普段の生活では意識されないことですし、新聞やテレビもそういう観点からの議論をしませんが、現代世界の三分の二が一元論者だということは、絶対に注意しなければいけない点です。イスラム教、ユダヤ教、キリスト教は、結局、一元論の宗教です。一元論の欠点というものを、世界は、この百五十年で、嫌というほどたたき込まれてきたはずです。だから、二十一世紀こそは、一元論の世界にはならないでほしいのです。男がいれば、女もいる、でいいわけです。
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➡ 文中の「脳と身体」は<精神と肉体>のことを言われているのだと思いますが、驚くことに「脳と身体」を含め「意識と無意識」「都市と田園」、あげくのはてに「男と女」、これらがどうして二元論になるのでしょうか。これは<二元論>ではなく、すべて<二項対立>であるはず。
「イスラム教、ユダヤ教、キリスト教は、結局、一元論の宗教です。」それはその通りなのですが、では、なぜ宗教が生まれたのでしょうか。原初の人間にも<信仰>はあったでしょうが、<宗教>がこの世に最初からあったのではありません。人間自身が「神」や「仏」をつくり出したのです。
人類史のなかで、「宗教」を編み出し、それを得た人間。しかしそこに安心立命の境地を得ることは出来ませんでした。なぜなら、人間自身は「自我の世界」に生きる動物だからです。宗教は人類共通の普遍の教義を持つに至らなかった。つまり、「真我にもとづいた信仰」ではなかったからです。
「一元論」と「二元論」の融和はありません。では、どちらが正解か? 答えは双方に正解はないのです。なぜならそれは、一元論者、二元論者双方が自我意識下でたたかわせている議論だからです。
私がめざす「不二一元論」からすれば、これらは一元論者、二元論者双方の不毛な議論にみえます。完全な平和は、肉体と精神を合一した<梵我一如>という「真我の顕現」の下にしか解決しない問題なのです。人間の精神のあり処、つまり「神」は肉体の外に在るのではなく、肉体の内にあるのです。神と肉体が合一した状態で。
「○○教」といった固有名詞の一元論的宗教ではない、真我の顕現としての「人間」の裡(うち)にあるのです。それがまさに不二一元論の究極の姿です。
われわれが生きる自我意識下にあるこの「二元世界」には言葉があります。それは、物事を解決するというより、争いを呼ぶ道具となり果てています。一方で、われわれが救いを求めている一元世界は多世界です。そこには己の宗教こそが最善のものだとする教えがはびこっています。これも自我の世界に変わりはありません。ですから、完全な平和をめざす者は自我を超えた<不二一元世界>に向かい、真我とともに生きることを求められるのです。
究極の平和は、「沈黙」にしかないのです。
人類が求め続けなければならない究極の平和とは、「聖者への道」しかありません。「バカの壁」は、己というものを自覚しない、自我の世界に生きるすべての人に覆われているのです。
(記 2019.4.13 平成31)