*私のこと(11) 「明恵の夢と高山寺展」に出かけて… またもシンクロニシティ | のむらりんどうのブログ       ~君知るや ふたつの意識~

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2002年9月22日の早朝。目覚めて布団の上に起きあがった瞬間、私は「光の玉(球)」に包まれたのです。以来、「自我」(肉体と時間に限定されたこの世に存在する私)と、「真我」(肉体を超えて永遠に宇宙に実在する私)の、ふたつの意識を持って生きています。

 

 

   大阪の中之島香雪美術館で開かれている展覧会「明恵の夢と高山寺」

   (主催・香雪美術館、高山寺、朝日新聞社)に出かけました。

 

 私にとってはどうしても観ておかなければならない展覧会です。なぜなら、これまでもこのブログで紹介していますように、明恵上人は私の母方(湯浅姓)の先祖である紀州湯浅の城主・湯浅宗重の孫にあたる人で、尊敬をもって慕いつづけているからです。

 

 その人となりは多くの書物で紹介されています。なかでも長年にわたり、みずからの「夢」を書き綴った内容は時空を超えて世界に認められたものでもあります。

 

 展覧会を機に発行された「図録」の巻頭には、次のように書かれて

 いました。

                          (一部を引用します)

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 高山寺開祖の明恵上人(11731232)は異色の高僧です。鎌倉時代に京都の北西、栂尾の山間の地を賜り、高山寺を仏教の研究や修行に欠くことのできない寺へと築き上げました。自身も熱心な学業僧であり、求道と実践の人でした。父とも慕う釈迦の生地・インドを訪れようと二回企て、叶えられませんでした。仏道を進む決意を表すために自分の右耳を切り落としたという逸話が知られています。なにより青年期の十九歳から晩年の五十八歳まで、自分のみた夢を記し続けたことは、類を見ません。そして、多くの弟子が明恵上人を慕い、その遺徳は現代にまで続いています。……

 手がかりとなるのが、明恵自身が記した「夢記(ゆめのき)」です。寝ている時にみた夢にとどまらず、修行中の夢想や幻も含まれています。この膨大な量の「夢記」を読み解くことが明恵の人間性を深く知る鍵です。「夢記」は高山寺に残されていますが、外部へ出ているものもあります。朝日新聞社の創業者で香雪美術館の所蔵品を収集した村山龍平(18501933)のコレクションにも、1カ月分の「夢記」一巻があります。高山寺と村山のつながりもテーマのひとつです。……

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 展覧会が開かれている香雪美術館は、大阪・中之島三丁目のフェスティバルタワー(朝日新聞ビル)西館=写真中の左=の4階にあります。その西館には美術館のほかにテナントなどが入っています。一方、四ツ橋筋を挟んだ向かい側には東館=写真中の右=があり、朝日新聞大阪本社のほかに劇場・フェスティバルホールなどがあります。ご承知のようにそれまであったビルを改築し、まず東館、そして数年前に西館が完成しました。そのとき新聞社の位置が変わり、西館から東館に移動。そして元西館にあった新聞社跡の1区画(4階)に香雪美術館が出来たのです。

 

 完成いらい、新聞社のある東館には何度か訪れていたのですが、西館には今回初めて入りました。そして、展覧会を観るべく会場の美術館の中に足を踏み入れて驚きました。理由はこうです。「そうなんだ。元々この場所には新聞社があって、3階には編集局がありそこで私は数十年働いていた。そして、定年前には4階にあった職場(資料室)に2年間いた。そして今、その資料室跡に香雪美術館が出来ており展覧会が開かれている」――その場所は、なんと私が十数年前に仕事をしていた<空間>だったのです。不思議といえばふしぎ…。私はまたまたシンクロニシティ(引き寄せ)を体験したのです。そこへ導いたのがこれまたふしぎ、私が勤めていた朝日新聞社の創業者村山龍平翁だったのです。龍平翁と「夢記」の接点がなければ、このふしぎは実現しなかった…。

 

会場内を歩きながら、明恵上人とのご縁の深さを思うと同時に、あついものがからだの中を突き抜けていきました。「ありがとうございます」

 

 

 

 

 ところで、図録の中で、<夢のあとさき 第3章 明恵示寂>にはこう書かれていました。

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 寛喜四年(1232)、高山寺で明恵は六十年の生涯を閉じました。臨終時の枕元には、「五聖曼荼羅」が掛けられました。六十年の求道の末にたどりついた修法・仏光三昧観の本尊です。そして、兜率天にいる弥勒菩薩のもとに生まれることを願って息をひきとりました。この時、弟子たちには膨大な数の夢記が遺されました。焼き捨てるようにとの明恵の遺言にもかかわらず、現在も多くの夢記が伝わっています。師直筆の夢記を無下にできず、遺志にさからい秘蔵した弟子たちの姿が想像されます。……

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 明恵上人についていろいろと本を読んできましたが、<死後、夢記を焼き捨てるように>という遺言について、私は今の今まで知りませんでした。学者の方々にとっては周知の事実なのでしょうが。

 

では、この遺言をどう理解すればいいのでしょうか。明恵上人にとっても、弟子にとっても肯うことのできる解答は何か――

 

 私の思いは、こうです。 <明恵上人にとって、この世は夢だった

 

 

                                           (記 2019.4.6 平成31