あれやこれや――進駐軍との“付き合い”は、ほんとに色々とありました。
私にとっては、物心がついてから小学校卒業の頃まで。その影響は相当なものでした。子どもの私でさえそうですから、大人の世界ではもっと大変なことがあったと思います。
しかし、すべてが“悪”ではありません。「ヘイ、ボーイさん!」と言ってチューインガムをくれる兵隊もいましたし、なかには小遣いをくれる兵隊もいたのです。なにも、物やお金をくれるからいい兵隊というのではありませんが、戦後の困窮している時代です。正直、子どもにとっては「うれしい」ことでした。
私が米兵に嫌悪感を抱いたのは、その横柄な態度や日本人を見下す者が少なからずいたということです。アメリカと日本は勝者と敗者の関係ですから、当然アメリカ兵にそのような意識が芽生えてもおかしくはなかったでしょう。それに実際、大人の体格にしても熊と犬くらいの差がある、と子どもの私にはそう見えました。常識を覆す悪の意識は「戦争」が生み出すのです。
米兵が駐屯地から外出するのは、「酒と女と娯楽」を求めてのことでした。ですから、外出時に私たちを見かけてもほとんどの兵隊が無視していました。いや、兵隊からすれば話しかける必要は全くなかったといえばそれまでです。ただ、一部の兵隊が「敗者の子どもたちへ」といった気分で私たちに小遣いをくれたのでしょう。
駐留部隊は、圧倒的に白人兵が多かったと思います。私たちに小遣いをくれたのは一人を除いてすべて白人兵でした。白人兵は子どもが多く集まっているところへ来て、ポイと千円札を1枚あるいは2枚と差し出すのです。一回だけでしたが5千円札を出す兵隊がいました。千円にしても5人で分けると一人200円。一日の小遣いが当時10円~30円くらいですから、10日分くらいあるわけです。みんなニコニコしていたことは確かでした。
私たちは「サンキュー」という言葉を覚え、その場限りで彼らを見送っていました。そんな中、ただひとり、その人の名を覚え尊敬するまでになった兵士がいたのです。
その人こそ、「黒人軍曹のジョージさん」でした。
まず、子どもの私たちは英語を話すことが出来ません。ジョージさんも日本語を話してはいませんでした。なのに、どうして私たちがその人の名前を「ジョージさん」と知り、「軍曹」だったということまで分かっていたのか。それは今も謎のままです。
40歳くらいだったでしょうか。駐屯地から出てくるジョージさんは、いつも薄茶の兵服にギャリソンキャップをかぶり、姿勢を正して一人で歩いていました。私たちが、「ジョージさ~ん」と声を掛けると、ジョージさんはにこっと笑って手を振ってくれました。
私たちといつ、このような関係になったのかは覚えていません。とにかく、子どもたちをかわいがり、温かく迎えてくれる人でした。ジョージさんもたまに小遣いをくれました。ただ、他の兵隊とお金の渡し方が全く違うのです。ジョージさんは決して千円や2千円といった高額な紙幣を、ポンと差し出したりはしません。50円くらいをそこにいる一人ひとりの手の内に握らせてくれるのです。こんなことをする兵隊はジョージさんだけでした。私たちは自然にジョージさんを先生のように思い、尊敬するようになったのです。
物をもらうということしか子どもの私たちと兵隊との交流はないわけですが、私としてはもう少し歳を重ねていれば、他の方法で“付き合い”ができたのではないか、と思うのです。
ジョージさんとは、たしか2~3年くらいの交流でした。12月の「クリスマスの日」は今でも忘れられません。ジョージさんが一人でジープに乗って駐屯地から出てきたのです。そして、遊んでいる私たちのそばにジープを止めました。なんと、後ろの席には100個くらいのハトロン袋が山となって積まれています。袋の中にはクリスマスプレゼントのお菓子が入っていたのです。ジョージさんは、顔なじみになった私たち一人ひとりに声をかけながら袋を手渡してくれました。配り終えて、喜びに沸く私たちの笑顔を見ると、次の場所へと向かって行きました。
袋を開けると、それまで見たことも食べたこともないお菓子がいっぱい入っています。紙の柄がついたアメ、クルミ、ゼリー、カステラ……。アメリカの子どもはこんな素敵なものを食べているのか、と私はカルチャーショックをうけました。
クリスマスプレゼントをもらったのは、たしか2回だったと思います。私は子どもながらに、ジョージさんの気持ちを推し量っていました。「どうして僕たちに、こんなに優しくしてくれるのだろう。日本の子どもたちへのこのような施しを駐屯地内では誰も知らないのでは……」「ひょっとして、故郷のアメリカに妻や子どもを残しての進駐かもしれない。いまは自分の子どもに何もしてやれない。しかし、目の前には自分の子と同じくらいの子どもがたくさんいる……」
ジョージさんは人格者でした。日本は、こんな人と戦争をしたのだろうか?。「どんな組織にも、善い人もいれば悪い人もいる」。子どもの私でさえそう思ったのです。
いまジョージさんが生きておられたら、たぶん90歳を過ぎておられるでしょう。駐屯地の外で知り合った「戦勝国の兵士と敗戦国の少年」の間柄にすぎませんが、出来ることなら会ってお礼を言いたい。少年を過ぎて、私がアメリカを嫌いにならずにすんだのは「ジョージさんの存在」があったからです。
ジョージさん、お元気ですか。ありがとうございました。
(記 2016.4.5 平成28)
