「心(こころ)」とは、それ自体があるわけではないのです。真我の意識が、目覚めとともに身体を通じて「心」を生み出し、あらゆる想念を起こさせるのです。
したがって、「善い心」とか「悪い心」というものもありません。「心」は善いものにも悪いものにもなり得るのです。
むろん、性善、性悪というものもありません。身体を通じて目の前に現れた対象(物)に対して、エゴ(自己)が判断し、対象にぶつかる。それが、善きあるいは悪しき現象としてあらわれるのです。
心はソフトといえます。道具にすぎないのです。したがって、対象物に常に冷静でいられる自己をつくらねばなりません。
心そのものは、内へ、真我へ溶解させておけば、心のゆらぎはありません。したがって、善心、悪心を超えたところに真の平和が訪れます。
「願い」や「祈り」の宗教では、平和は訪れません。一人ひとりが真我への目覚め、それに向かう努力が平和への道なのです。
(記 2006.12.8 平成18)