先日 京都シネマで映画「一人になる」を観ました。

 

医師 小笠原登とハンセン病強制隔離政策 というサブタイトル

 

小笠原登という医師とは・・・専攻は、皮膚科学ハンセン病の研究者でした。

1888年7月10日生まれで、1970年12月12日に亡くなられています。

京都帝国大学医学部卒業後、同大学医学部の皮膚科特別研究室助教授となり、1948年まで在職。他の病院勤務を経て、国立療養所 奄美和光園が最後の勤務場所となりました。

奄美和光園では、断種を行わなかったので、子どもを産むことはできましたが、残念ながら、本人たちが子どもを育てることができず、養護施設に預けられ、小笠原医師は、子どもたちにも大きな愛情を注いだ、とされています。

 

 国は1907年に「癩予防ニ関スル件」を制定。ハンセン病患者を「強制隔離」するという政策を始めました。そして政治家や法律家、宗教家やなんと医師までも、その過ちを見抜けず、無批判に「追従」してきたのです。それが1996年の「らい予防法」廃止まで、約90年間も続いてきたのです。

 この間、「人間回復」への闘いがこつこつと積み重ねられてきました。「ハンセン病は不治の病ではないし、遺伝でも、強烈な伝染病でもない、隔離は必要ない」と言い続けて、同時に医師としてハンセン病患者の治療にあたっていました。一人ひとりの患者に接し、患者を「隔離」から守ろうとしたのです。

 真宗の僧侶でもあった小笠原登を生みだした「土壌」と、彼を飲み込んでいった国策、それに歩調を合わせた真宗教団。そのような時代社会にあって、「一人になる」ことに徹することができた背景や、人との出会いを描いたドキュメンタリー映画でした。(途中チラシより引用)

 

 先日の朝日新聞に、「ハンセン病の全国13の国立療養所の入所者のうち、社会に残る偏見と差別などを理由に、4割近い380人が本名を伏せた生活を余儀なくされていることが朝日新聞のアンケートで分かった。社会復帰した後に再入所した人は、少なくとも延べ313人いた。」と掲載されていました。

 長島愛生園で出会った元患者さんのSさんが、「私、ハンセン病やったんです、と笑って言える日が来ることを願っている。」という言葉を思い出しました。消滅した病気であるのに・・・です。

 

 ハンセン病・ハンセン病患者に対する間違った国策が、今もなお「差別と偏見」を残し、人間回復に至っていないことが、心底苦しいのですが、現在猛威を振るっている新型コロナウイルス感染に係る人たちへの対応から、人権侵害が起こっている現実に対して、同じ過ちを起こしてはならない、とつくづく思うわけです。

 一つずつ席をあけているので、着席できる椅子は、ほぼ鑑賞者で埋まっているように見えました。

 多くの人が、やはり様々思うところがあるんだな、と感じました。

 

「群れるな ひとりになれ  みんなになるな ひとりになれ」

私たちの生活の中で、この言葉は大きな意味を持つものだと思います。

同調圧力 という言葉がありますが、小笠原医師のように、信じることを貫いていこうという力、強い心を持ちたい、と…