8月9日は、東学農民軍の中心人物 全琫準(チョンポンジュン)に因んだ院坪(ウォンピョン)と古阜(コブ)周辺をおとずれました。

全州のホテルをチェックアウトし、院坪へ。(サバルトンムン)(コブミョン)

 

第2次東学農民革命

全州奪回を受けて、王朝政府は日清両国に撤兵を求めましたが、拒否され、7月末、朝鮮を舞台に日清戦争が始まりました。日本軍の優位な戦況を見て、農民軍は10月に「反日」を掲げて再決起。農民軍は各地で日本軍・王朝政府の連合軍と戦い、12月初めの公州(コンジュ)決戦で敗北。

 

院坪は、全琫準にとって少年期を過ごしたふるさとのような土地。

東学農民軍の子孫である女性が案内を、通訳を市関係者がしてくれました。

 

 

 

亀尾卵埋葬地(クミランマイソウチ)

院坪の戦闘で亡くなった農民軍兵士の墓。

村人たちが散乱した遺体を集めて埋葬しました。土饅頭の墓の形が、数十年前まではあったのですが、今では、ほとんどわかりません。

 

 

院坪市場が賑やかでした。

この道は、昔の市場があるところだそうです。

 

 

院坪執綱所(ウォンピョンチプカンソ)

全州和約後の農民自治期には、執綱所(農民自治の拠点)として機能していた。

2015年に国費6億5千万ウォンを投じて復元工事が行われました。

 

午後は古阜へ(井邑市)

井邑市の関係者が案内も通訳もしてくれました。」

 

 

 

 

沙鉢通文 古阜面

1894年 全琫準ら20人が蜂起を謀議し全員が署名した文書

首謀者が誰かわからないように円形状に署名

この文書は、東学農民革命記念館に保存・展示されています。

 

マルモク市場跡 柿の木の下で蜂起

 

 

無名東学農民軍慰霊塔 古阜面

主塔は、四角い花崗岩がはめ込まれ右手に傷ついた同僚を抱きかかえ、左手に竹槍を持って叫ぶ農民軍兵士が陰刻。主塔を取り囲む32本の石柱には、無名の農民兵士の顔や武器として使った農具や食器などが浮き彫りされている。

 

 

 

 

古阜官衛跡 古阜面

1894年2月15日未明、全琫準に率いられた農民1000人ほどが襲撃した古阜郡役所。群守は逃亡して空っぽだったそうです。

今は礎石さえ残っておらず、小学校が日帝時代に建てられたそうです。

 

 

 

 

 

萬石洑(マンソクボ)遺址 梨坪面(イビョンミョン)

洑とは灌漑用水を堰き止める堰提。農民蜂起のきっかけ、群守趙秉甲(チョビョンカブ)の厳しい水利税取り立てが行われたところ。今も広大な土地に豊かな実りがみられました。

 

最後に、黄土峴(ファントヒョン)戦跡・東学農民革命記念館を訪れました。

東学農民革命記念財団が、全羅北道から委託を受けて管理・運営している。

東学農民革命財団は、2004年3月に制定された「東学農民革命への参加者などの名誉回復に関する特別法」に基づいて、2010年2月、文化体育観光部の特殊法人として発足。

 

 

 

記念館の左前方に高さ30mほどの黄土峴(菅軍との戦闘地、勝利後全州へ)

30mの高さで、農民軍が政府軍を見下ろした丘陵が広がっています。

 

この日は、多くの場所を訪れ、タイトスケジュールで動きました。

最後の記念館は、短時間で学芸員さんの説明を受けました。

ゆっくりとみる時間があれば、それまでに見学してきたところがよりよく理解・整理できたのではないか、と思いました。

最後に、学芸員さんが強調されたのは、東学農民革命のその精神が、民主主義の発展に現在までも継承されている、ということでした。納得です。

 

9日の夜は、ソウルです。

一年ぶりにお会いするRさんが予約していただいたお店でサムギョプサルを一杯食べて、お話を楽しみました。

彼が、つくづく「日教組の『教え子を再び戦場に送るな』というスローガン」いいですね、と言っていたのがうれしかったです。