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デモクラ塾でお知り合いになったAさんに誘っていただき、岡山県にある国立療養所長島愛生園を訪れました。

 

大阪駅からJRで日生まで行き、そこにAさんと懇意になられた入所者のSさんが車で迎えにきてくれていました。邑久長島大橋『人間回復の橋』を渡り、長島愛生園に着き、歴史館にまず案内されました。

そこで、昭和30年代の愛生園の模型を中心に展示物を見ながら、ハンセン病の歴史や愛生園での生活のこと、ご自身のことなどいろいろとお話を伺うことができました。

 

リーフレットの園長のご挨拶からー

 国立療養所長島愛生園は1930年に、日本初の国立療養所として誕生しました。当時ハンセン病は感染症ということはわかっていましたが有効な治療法がなく、国の政策として療養所への隔離が行われました。

 1948年頃特効薬が使用されるようになり、治る疾患となりましたが、隔離政策は1996年の「らい予防法」廃止まで続きました。

 入所者はハンセン病は治っていますが、高齢となり後遺症もあるため社会復帰が困難で、ほとんどの人は愛生園で生涯過ごすつもりでいます。

 2001年「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」でハンセン病に対する理解は格段に向上しましたが、社会的弱者に対する偏見・差別はなお根強いものがあります。偏見・差別のない世界をつくりあげていくために、ハンセン病の歴史から学べることはたくさんあると思います。長島愛生園歴史館がその一助になれば幸いです。

 

Sさんは80歳の男性で、14歳で発症し、愛生園に入所し、現在もそこにお住まいです。66年間です。

ハンセン病患者は末梢神経の麻痺で痛みや熱さを感じにくいため、やけどをしないように工夫がされている湯呑も教えていただきました。

ハンセン病とは、らい菌によってひき起こされる病気でありますが、らい菌の病原性は非常に低く、感染することは極めてまれであり、感染しても発病する人はさらに少なくなります。すぐれた治療薬が開発されていて、早期発見・早期治療で後遺症を残さずに治る病気となっています。

もちろん現在療養所におられる方は全員回復者であります、自由に療養所の外で住むことができますが、入所者の多くはすでに高齢となっていることもあり、療養所を退所する方がほとんどおられないのが現実です。

 

1931年感染力が強いと思われていた病気であったため、「癩予防法」が制定され、「無癩県運動」各県が競って患者を療養所に隔離する運動が始まりました。

歴史館の愛生園模型では、園の中は、まず男女別に分かれ、少年・成人へと年を増すごとに入居舎をかわっていくこと、小・中学校もあり、高校もあったこと、子ども連れで入所した女性は、子どもが未発症となれば、そこで別れなければならない、など、自由などない入所者の生活を垣間見ることができました。入所者同士では結婚は許されていましたが、子どもを持つことは許されていませんでした。1948年には、「優生保護法」の対象にハンセン病も入った結果、それまでも行われていた断種手術が合法化されました。

入所者の食事は、当時の刑務所に収容されている人たちと同じ予算であったことも強調されていました。戦時中は、「祖国浄化のため」と障害や病気のある人は排斥されていった事実があります。園には定員数を大きく上回る人数が入所していましたが、定員数の予算でまかなっていたこともあり、食べるものがなく、薬もなく、多くの人が亡くなっていったとのこと。また、島なので、岸壁になっているところでは、自死する人も少なからずおられたそうです。

 

初代の園長は、愛生園を初めての国立療養所として楽園にしようと考え、様々な技術を持った患者を集めて、建物や道路も含め、建築作業などをしてもらっていたそうです。皇居からは、桜をはじめ木々をいただき植えていたそうです。今でもしっかりと根を張っています。

また、療養所内での労働力不足を補うために「患者作業」もさせられていたそうです。「患者」でありながら、「患者」として扱われていなかったそうです。中央の炊事場から食事を運ぶのも、掃除をしたり、木工部や製菓部などもあり、わずかな慰労金が支払われていたそうです。

このような状態から処遇改善運動も入所者によっておこなわれ、一つ一つ改善もされていったそうです。

暮らしが良くなってきたのは、1952年にらい予防法が制定されたころからだそうです。この時、すでに治療薬が開発されハンセン病は治る病気となっていたにもかかわらず、1996年らい予防法が廃止されるまで、隔離政策が続けられました。

 

1998年星の塚敬愛園、菊池恵楓園の入所者ら13人が、熊本地裁に「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」を提起、2001年に国の敗訴となり、全入所者への補償と生涯療養所で過ごす権利が約束されました。しかし、後遺症に対しての無知識や偏見などで、深刻な人権問題としてクローズアップされ、2009年「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」が施行されました。

 

私は、Sさんの一言一言にハッとさせられ、知識として知っていたハンセン病が、Sさんの人生と重なって、ほんの少しだけど、66年間の重みと深さに接することができたように思います。

「福島から保養に来ていたこどもたちに、どう接していいかわからん」子どもを持つことが許されていなかったので、入所者にとって、同じように年を重ねるだけで、子どもが生まれ成長することを見守る経験がなかったこと。

「高校には行かなかった」同じ長島愛生園内にあるわけだから、生活環境が変わるわけでないので…と。他の療養所に居たら、高校に通うためにここに来て、社会復帰をめざしたかも、と。

「食費が、刑務所と同じ予算やったから…」自分たちは、犯罪者ではないのに…等々

運転免許も社会復帰できるように、後遺症が軽症だった何人かが、園内で運転技術を身につけてから、試験を受けに行ったこと、治癒しているのにかかわらず、入所者が乗る車は、それに限定されていたことなど、も聴きました。

 

 

730日頃は、相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が死亡した事件で、容疑者のことが様々報道されていたので、そのことにも触れ、「ここと繋がっているよね」と。

私たちも、電車の中で、その優生思想の話をしていたところだったのですが…

映画「あん」の樹木希林演じる入所者の最後の言葉「私たちはこの世を見るために、聞くために、生まれてきた。だとすれば、何かになれなくても、私たちには、生きる意味があるのよ」が重く響いてきました。

すべての命に意味があり、価値があることを私たちは忘れてはならない。その生き様や社会性ではなく、存在そのものに意味があることを…

 

Sさんは、笑顔で言いました「私結核やってん、と同じように、私ハンセン病やってん、と笑って言えるようになったらいいんや」と。

その言葉をしっかりと受け止めたいと思いました。

 

写真を撮っている時に、「ここからの風景が絵葉書になるから…長島はきれいなところや、と伝えてほしい。」と。

ひとりでも多くの人に、ハンセン病への理解を深めてもらうことを、人権を確立する社会となることをめざしたとりくみを進めなければ…

 

暑い日でしたが、車で園内を回っていただきました。

学校跡や、恵の鐘、納骨堂(故郷に帰れない3600柱を超える遺骨が眠っています。献花をしました)、収容所(回春寮)、収容桟橋(入所者にとっては社会や家族との別れの場所)などを見学し、邑久光明園の官房も見せていただきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

帰りは、邑久駅まで送っていただきました。

一回の訪問では、まだまだ多くのことはわかりません。とにかく当事者であるSさんのお話を伺うことが、単なる文字だけではない、その思いに少しでも寄り添うことができるのではないかと、つくづく思いました。

暑くない時に、また訪問したいですね。

 

201531日現在 入所者数 226人  開設以来の物故者 3,696