長崎旅行


8月7日(日)~9日(火) 例年夏に旅行する仲間と、今年は長崎に出かけました。
日程では、9日の原爆祈念式典にも参加し、午後から帰る予定としていました。
メインは、8日に炭鉱の島、端島(軍艦島)の見学としていました。
しかし、台風の影響で船が欠航となってしまいました。当初の予定を変更し、9日の午前中に軍艦島見学に変更し、無事船は出航できました。


軍艦島とは・・・
長崎半島から西に約4.5km、三菱石炭鉱業(株)の主力炭鉱があった高島から南西に約2.5km、長崎港から南西に約19kmの沖合いに位置する「端島(はしま)」。
端島は、南北に約480m、東西に約160m、周囲約1,200m、面積約63,000?という小さな海底炭鉱の島で、塀が島全体を囲い、高層鉄筋アパートが立ち並ぶその外観が軍艦「土佐」に似ていることから「軍艦島」と呼ばれるようになりました。
当初、草木のない水成岩の瀬にすぎなかったこの小さな島は、採堀技術の発達とともに、周りを6回にわたって埋め立てる形で護岸堤防の拡張を繰り返し、今日の島の形状となりました。
端島では、1810年ごろに石炭が発見され、佐賀藩が小規模な採炭を行っていましたが、1890年三菱合資会社の経営となり、本格的海底炭鉱として操業が開始されました。
出炭量が増加するにつれ人口も増加し、狭い島で多くの人が生活するため1916年には日本初の鉄筋コンクリート造の高層集合住宅た建設され、最盛期には約5,300人もの人々が住み、当時の東京都の9倍もの人口密度まで達しました。
エネルギー革命により、エネルギーの需要が石炭から石油に移ったことで、出炭量も人口も徐々に減少し、1974年1月に閉山した後は、同年4月に無人島になりました。
良質の石炭が採れたので、島の人々の給与は他よりも多く、電化製品の冷蔵庫・テレビ・洗濯機と三種の神器が早くから揃っている家庭が多かったそうです。
しかし、炭鉱の仕事は、海底炭鉱であるため、採堀作業は、海面下1,000m以上の地点にまで及び、勾配はきつく、気温30℃、湿度95%という悪条件のもと、ガス爆発など常に危険と隣り合わせの過酷なものでした。(軍艦島パンフレットより抜粋)


朝鮮や中国からも強制的に労働力として人が集められたということも聞いていますが、そういう記述は、パンフレットにも資料館にもありませんでした。


長崎では、諫早に宿をとりました。2日目は、雲仙組と長崎市内組とに分かれました。
私は、長崎市内組で、午前は、永井隆記念館・如己堂を訪れました。
原水禁長崎大会に来られている人も多く、フィールドワークで、記念館には多くの人が見学していました。
永井博士は、島根県で生まれ、長崎医大を主席で卒業しましたが、急性中耳炎になり、物理的療法科で放射線医学を専攻。結核医療に関わる中、戦時中はレントゲンフィルム不足で、肉眼でレントゲンを観るなどしたため白血病にかかり、余命の宣告も受けていました。そして原子爆弾で被爆、戦後は平和への思いを著作活動を通じて病床から発信されていました。
カトリックの洗礼を受けていた永井博士に、友人たちが、用意したのが如己堂です。
2畳ひと間きりの家に、二人のお子さんと過ごされました。
如己堂…己のごとく人を愛す、という意味を名にとった家です。
次女のカヤノさんは、京都の八幡市に住んでおられたそうです。やはりカトリック教徒で、枚方カトリック教会の信徒さんだったそうです。
なんだかとても身近に感じてしまいました。医師として自分の健康もいとわず、被爆後は、平和への思いを書くまた描くことによって亡くなるまで発信されたことなど、強い感銘を受けました。


ヒロシマ大会で、長崎へのリレートークの中で、長崎大会実行委員会の人のあいさつは、これまで「怒りの広島、祈りの長崎」と言われてきましたが、これからは「行動の長崎」となります、とされていました。浦上天主堂のアンゼラスの鐘の音が戦後を生きる人々に気力を与えたなど・・・祈りの長崎の意味がなんとなく理解できました。


1日目7日は、長崎原爆資料館を見学しました。平和ガイドをされている方の説明を聞いているグループに交じって、わかりやすい内容についつい一緒に話を聞いていました。グループの人の時間があったので、はしょった部分がありましたが、私たちを国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館に案内していただけました。追悼空間では、名簿棚に原爆死没者の氏名を登載した名簿が納められており、この名簿棚の方向に原爆落下中心地があります。7日夜には、原爆祈念式典のために名簿は運び出され、10日にはまた戻されます。黙祷をし、平和情報コーナーで、各々メッセージを書き残してきました。


皿うどんに中華料理、諫早での鰻料理・・・カステラをお土産に買い、いい旅行となりました。