一
燃え続けた薪が静かにあるその姿は、私の古い恥ずかしい記憶の中の恥部を刺激して忘れかけていた足音は、つか、つか、つか、と後ろから追ってくる。
決して逃げることのできない黄昏の斬首に晒された目を閉じた権力者の顔に斬首した権力者の顔がなぜか似通っているように思われ、誰もが禁忌に触れないように目を遠ざけていた。下衆な人ほどそこに嗜好の種を抱え、あの燃え尽きてしまった熱情は、下衆な人の笑い声に寂しくなる。なのに、その下衆と蔑む私の中に冷ややかな笑いがあることをどうすれば偽ることができただろうか。
熱情は絶え、耐えることのできない「生への冷笑」が青い火となって我が心で静かに揺れている。
二
白んだ空に鳥も風も起きていなかった。静かに村の共同の井戸から水を汲んでいる音がする。何回も何回も汲んでは、止み、肥溜めの方へ流す音が聞こえる。また、水を汲んでいる音がして流す音がする。徐々に白から赤に変わる「朝の空を朝焼け」と云うんだとよか細い押し殺した声がする。その時の流れに逆らうように鳥も風も起きだし、ちゅん、ちゅんというさえずりと木々の葉を揺らす音が村の皆を起こすように動き始めた。
千代は娘を連れて、月経帯を人目に触れないところで干している。
三
「お前を生かすために俺は死ぬ」
僕をいじめたガキ大将は意味不明な言葉を投げかけて僕の前で学校の屋上から飛んだ。
鍵穴を壊した屋上の扉は先生より先に警察官が探っていた。彼が壊して僕が握ったそのドアノブは僕は死ぬのだと思っていた恐怖を越えて生かされた事実にまどろんでいた。先生は社会の中では警察官よりもちっぽけに思えた。いじめている彼はいじめられている僕よりもちっぽけなようにドアノブを角度を変えながら撮る警察官に先生たちは引きつった顔をしていた。
「君は佐藤君とはどういう関係だったの?」
「彼は僕の主人。僕は彼の犬でした」
「ちょっ、言葉を選べ島田」と今や支配権を失った誰かに言われた。
「主人、犬ということは、君はいじめられていたのかい?」
「はい」
「では、なぜ佐藤君が屋上から落ちることになるの?島田君は何をしていたの?」
明らかに僕が彼を殺したと思っている。その優しさの仮面を被った正義が誇らしく怖かった。それはまるで彼よりも彼に付きまとう篠山や庄司のようだった。
「彼は死ぬために僕をいじめていたんだと思います。結局は彼の自慰行為です」
なぜか、僕は彼がしたかったことをいじめの中から見出していた。純粋な支配と従属の中で犬は主人の心とシンクロしてしまうのだ。彼は死にたかったでもそれができない、だからこそいじめることで少しづつ自分を解放していた。しかし、彼の至上の目的は自分を殺すことだった。僕をいじめる中で彼は自分で自分を殺す感覚を見出してしまった。
それはたぶんあの日だ、と思ったが僕は僕の命のために忘れることにした。
「彼は頭がいいけどどこかつかむことのできないものを持っていました。それが昨日の夜、確実な形で出ました。それは僕のために死ぬ、という意味不明な言動がそうです。いじめっこがいじめらっれこのために死ぬなんて信じませんよね。大人には。でも、僕たちは、いじめるいじめられるを越えて繋がっていたんです。恋でも愛でもない、暴力と痛み。支配と従属。冷笑と涙。あらゆる真逆の感情は根底では生きていることの証明なんです。彼は死ぬために生きて、僕は生きるために死んでいた。僕らは相反する宇宙の重力の中で抗い続けていたんです。彼がなぜ死んだかは分かりません。そして、なぜ僕が生きているのかも分かりません。僕らの世界を僕が分からないのであれば、なおさら、あなた方には分からないでしょう。」言い終えてから大人がぽかんとする様をただ見ていた。
「亮太。君はいま僕の中で確実に死んだよ」と無感覚な無感情な涙がひとすじ落ち、君がくれた脇腹の痣が妙に熱いんだ。
四
生きることはガラスのモザイクの紫を信じるようなものだ、と神父は言った。
私たちは、様々な愛や優しさの色を知っている。しかし、それは社会という中で見るただ一点の屈折した喜びでしかない。私たちは様々な色を社会に見出しながらも、そのモザイクの一部分の美しい色のために生きている。私には好ましくない色もその全体として美しいモザイクガラスの中から人はそれぞれの好みを見出すなんて神はとんだおっちょこちょいなのだと少女は思った。
そのモザイクのガラスが割れた。なんの訪れも知らせないままにまるで小鳥が糞をして髪の毛にまとわるぐらいの意図しない神のご意志のように。
「この町は、我が軍の支配下に入る」
「この町は、由緒正しい信仰の町です。私たちは、あくまでも小鳥です」
「小鳥を生かす土地から出でた将軍の支配下に入るのだ」
「私たちの自由はあなたたちの自由とは違うように思います」
そうして、神父を残し、この町の指導者はどこか知らない『正義』の街へ送られていった。
「あのモザイクのガラス割れちゃったね」
「しかたないさ。ガラスは石には勝てないよ」と少女と少年は話した。
「でもね。君にだけ話すけれどあのガラスを割ったのは僕なんだ。誰にも言わないでね」
少女は、その事実よりあの入ってきた軍隊が割ったのだとなおも疑わなかった。なぜなら、むらさきのモザイクだけが、寂しそうに残っていてそれが月影にキラキラと光っているから。祈り見上げるその空に少女は希望を見た。この世の『紫』だけが残り、神父様もともに祈って下さる。
五
智也にとって、本は合わせ鏡のようなものであった。
古書店の店主は今日も1990年代のバラバラに積まれた週刊タブロイド紙を枕に昼寝をしていた。この古書店はジャンル分けというものを嫌うといえばカッコイイがただ単に入荷したものを並べるだけの無秩序な本の並び方をしていた。たとえば、料理本の隣に民俗学の専門書そして、あの小説家の処女作の文庫があり画集とまさかのレコードまでも隣り合わせで並んでいる。
智也は決まって目をつぶって、ここと指で指した点から棚の縦列にあるものを買っていった。今日は歌集と新約聖書とCDアルバムと誰かが売った何も書かれていないノートであった。その時、智也は何も感情を持っていなかったが、店主は夢の中で何かに出会ったのか「ハッ」といって起き、智也を見るなり「現実は夢よりも安心だな。今、切り殺されるところだったよ」と苦々しく笑いながら煙草を吸い始めた。「今日は何にあたった?」と聞くから、こいつらです、と見せると「ついにそいつらにあたったな」という意味が分からなかったが、「いいよ。今日はまけてやる」というから「ありがとう。おっちゃん」と言って、おっちゃんの奥さんが営む二階の喫茶店に行った。
「いらっしゃい。ともちゃん」
「早織さん。もうともちゃんはやめてよ」
「ともちゃんがともちゃんじゃなきゃ誰なの?」というから「ブレンドたのむよ」といつも席に座りながら言った。
歌集は「Aquila」という横文字の変わった名前の人のものだった。新約聖書はこれでもう三冊目だった。だいたいの古本屋にある新約聖書は思いつきで買った人がすぐに売ってしまうものだからほぼ新品とかわらないのだが、この新約聖書は妙に汚く煙草の匂いがした。「早織さん。CDって聞くことできる?」というと「懐かしいね。CDって私たちの時代は一般的だったのよ」と話が長くなりそうだから「これかけてよ」と投げるように渡した。
ロックだった。新しさは感じなかったけど古さも感じない王道のロックンロールを聞きながら何も書かれていないノートを開いた。
なぜかそこに智也は指で文字を書いていた。
誰にも読むことのできない智也ですら書きながら忘れていくものは「五七五七七」という気持ちのいい定型のリズムだった。智也にとって自分で何かを生むという感覚が芽生え、指先は小刻みに震えた。カタ、カタ、とコーヒーカップをセットする早織さんの乱雑さが妙に心地よかった。消えていったその文字を追いかけるように窓から外を見ると驟雨に濡れた街並みとコーヒーの香りがつんと鼻の奥を刺した。
「雨かよ」と独りごちたが、雨はもうやんでいるし水たまりに映った光をただ眺めていた。