「言葉から言葉が生れる感覚を見出したいんだ」掌の詩
「僕たちは朝の窓から見える遊んでいるような二羽の小鳥なのだ」と
デイジーが書いたポエムを授業中に称賛した国語の先生よりも食堂で
二ドルすらも惜しんでいるデイジーの姿の方が何とも言えない生々し
い現実なのだと蔑んだ社会科の先生の方が深い優しさと冷めた目を
持っていた。デイジーは誰と居ようと席につくなり感謝の祈りを
黙々と忘れずにするのを僕たちは歳をとってから尊敬するように
なった。
「太陽が今日も綺麗ね」何気ない会話を探す 空を見上げて
「言葉から言葉が生れる感覚を見出したいんだ」掌の詩
「僕たちは朝の窓から見える遊んでいるような二羽の小鳥なのだ」と
デイジーが書いたポエムを授業中に称賛した国語の先生よりも食堂で
二ドルすらも惜しんでいるデイジーの姿の方が何とも言えない生々し
い現実なのだと蔑んだ社会科の先生の方が深い優しさと冷めた目を
持っていた。デイジーは誰と居ようと席につくなり感謝の祈りを
黙々と忘れずにするのを僕たちは歳をとってから尊敬するように
なった。
「太陽が今日も綺麗ね」何気ない会話を探す 空を見上げて
DJに興味がある。
コネクティングが重要ってことかな?
そこには技術とか信条の差異がある。
現れた現象の解釈だけではうまくいかない。
「Make some noise」は一瞬の興奮。
音も色も思想も世界には溢れてる。
どれとどれを結ぶかが、意外と重要に思う。
![]() |
釋迢空ノート (岩波現代文庫)
Amazon |
![]() |
釋迢空ノート
Amazon |
すでに昭和五年「現代短歌全集」に『釈迢空集』として『海やまのあひだ』『春のことぶれ』の二歌集から自選した時、その「追ひ書き」に「大正十二年の大地震の直後、荒涼たる焼け原に立つて、旧様式の詠嘆をはがゆく思うた」といい、それを「短歌に近い四行の小曲に表さう」として、(中略)「其時は、此が短歌の次の様式だ、と思うた」(中略)「砂けぶり」という「詩」が書かれ、次のような四行が並ぶ。
草の葉には、風が―、
日なたには、かげりが、
静かな午後に過ぎる
のんびりした空想
赤んぼのしがい。
意味のない焼けがら―。
つまらなかった一生を
思ひもすまい 脳味噌
そこをとほるのは、だれだ―。
砂の上に いっぱいの月
まつさをな風―。
やけ土が うごく
私は現代詩的長歌というのをやっている。
許されまじ愛を欲する枯渇に咲く薔薇の柔棘(やわとげ)
浅く刺す血も噴かぬ浅いあさい傷
白百合の染み 亡き父の種(う)うる娼婦の
娘なればこそ
凛といや男(ひと)知らずして子を宿す身の
科学(すべ)がある
「青い薔薇」咲き、弔花ふる
誰(たれ)のはたなる我が身の――誰の胎児が腹を蹴る蹴る
釈迢空が短歌の次の様式はこうだ、と興奮した
逆のベクトルで
Aquilaは長歌の今の様式はこうだ、と興奮してやっている。
この歴史から見たらちっぽけな挑戦。
前者の否定から生もうという気概の強さに対して
後者の肯定を肩すかしで得ようという女々しさ。
(そもそも比較の対象でもないのになんとなく比較しようとするせこさ)
短歌史の巨人のスパークを見ると自分のスパークなんてしょうもねーと思ってしまう。
短歌の傍らで四行詩に挑戦してみよう。そうすれば、きっと釈迢空が示した指先でなく月を見ることができる。
僕は口で枝に食いついている修行僧なのだ。