こどもの頃、私の考える21世紀は
現実の21世紀よりもっともっと未来的だった。
空飛ぶセグウェイのようなものが
街を闊歩していて、
欲しいものは注文すれば
あっという間に手元に届く。
規則正しく整備された温度環境、
定められた通りに植えられた緑。
そんな、まるで星新一のSF小説のような世界。

そう、実際「ドラえもん」などより、
彼の描く皮肉めいた機会社会の方が、
私の幼心を刺激した。
そういった利便性重視のぬくもり無い
環境に憧れていたわけではないが、
未来というものはそういうものなのだと、
何とは無しに信じていたのだ。

いや信じていた反面、憧れるどころか、
そんな世界を嫌っていたのかもしれない。
理数系やコンピュータ系の話は
からっきしな私だが、
何故かSFの物語にはとても惹かれるのだ。
ただし、主に“ディストピア”モノに、だ。
それは所謂ユートピア-理想郷とは真逆の、
反ユートピア-否定的な社会の話。
アニメにもなった有名どころで言えば、
「No.6」や「シャングリ・ラ」など。
管理されることに慣れ
考えることを放棄した人間たちの中で、
我に返り、それを打破せんとする者のストーリー。
何故か、そういう物語が好きだ。

そしてそれと同時に、何故か無性に切なくなる。

先日、映画「オブリビオン」を観賞した際にも
同じような切なさに襲われた。
それは郷愁にも似た妙な感覚。
もちろん体験したことの無い世界のはずで、
既視感を覚えること自体
おかしな話なのだとは思うのだが。
あまりにその感覚がズキズキと胸に響くので、
もしかしたら今現実と捉えている
この世界こそがつくられた記憶なのだろうか。
そんな風にさえ感じてしまう。

仮に。
いま眠りから私が目覚めると、
そこは美しく無機質な銀色の世界だったら?
ぬくもりの無いこの世界に諦念を持ち、
何百年も何千年も前に滅んだ世界に
身を置きたいと思い、
カプセルで眠り夢を見続けていたのだとしたら?
だからこそ、
未来的なストーリーに胸がつまるのかもしれない。
なんて。
そんなロマンチックな感傷に浸るも、
目が覚めて見えるのは
我が家の見慣れた白い天井だけなのだけれど。

その方がいい。
変わらない毎日があることが何よりの
「しあわせ」なのだと私は思うから。
だからこそ、年々進化してゆく
人型ロボットの多さに、
若干恐怖を抱いてしまう。
いつか人は機械に
取って代わられてしまうのではないかと。
そうならないように、
人ならではのこころを、忘れずにいたいものだ。