数週間前あの川沿いを歩いた時には、
真っ白で小さな桜が姿を見せ始めていた。
「お」っと思ったのは私だけじゃなく、
そこを通る皆、気にしていた。
その何日か後には、いつの間にか
すっかり桜も咲き誇っていて何故か人通りも多く、
皆カメラを向けたり、携帯に収めたりしていて。

桜開花の知らせは、春ならではの
暖かさが
やっとやって来る頃で、
何だか嬉しくなる気がする。
尤も北の大地じゃゴールデンウィークになっても
肌寒いのだけれど、
東京に来て三年にもなれば、
 これがすっかり身についてしまっている私。

「北海道出身のくせに」なーんてよく言われるけど、
寒さのニガテな私にとって
春が来るのも桜が咲くのもすごく嬉しくて、
自然と足取りも調子付いてしまう。
だから川岸にぶわっと咲いた桜達は
やっぱり圧巻で、
例に漏れず群がる人に紛れて
しっかりと写真を撮る。

咲き始め→咲き誇り→散りかけ。
憂いの春雨に負けて咲いて早々散るかと思いきや、
意外に長いこと耐えてくれたその桜達は、
私が通る度に違う顔を見せて出迎えてくれた。

散りかけの桜なんて寂しいもんだと
思ってたけれど、直下に川があるとまた違う。
そこに流れる花びらも風流を感じさせるのに
充分だった。
はらりと舞い落ちる花弁が風にそよぎ、
緩やかな水の流れが
それを押し流してゆくその様は、
短命な華やかさを送り出す儀式の
それかと思う程に。

花を落とすその時まで、
人間に"美しい"と思わせる桜。
道を急ぐ人もそれを知っているからこそ、
写真に収め、花見として眺め、
その美しさを褒め称えるのだろうか。

けれど、花が散ったその先は?
その後の葉桜は、誰が足を運んで愛で、
誰がその下で宴を開く?
私も含め、皆開花した桜を驚嘆の声で
見上げることはあっても、
葉桜をわざわざ見に行く人は多くないだろう。
散り花を経て、また次の年のために
若葉が出づるその過程があって、
初めてあの可愛らしい花が咲くというのに。

花に限らず、そういうものって
見落としがちなのかも知れない。
自分が一生懸命になるあまり、
周りの過程や努力を気付かずに通り過ぎてしまう。
勿論そのどちらも、自分にだって在るものなのに。
そう考えるとちょっとだけ、
大樹となって緑を揺らしている桜さんに
ごめんなさい、って、そう思う。

花の去った葉桜を、
時間をかけて見に行って「綺麗だね」なんて
無理に呟く必要は無いけれど。
ただその濃い緑色を、
忘れない気持ちは大事にしたいって、
改めて思う私が居る。