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未知なる心へ

統一教会入信から脱会までの日々と、脱会後の魂の彷徨。

わたしの宗教・思想の系譜をおおまかに記すと、以下のようになる。

 

 

願望実現法(=引き寄せの法則・中学~大学初期)→統一教会(大学二年~25歳まで)→ひろさちやの本(仏教哲学)や老荘思想。「神との対話」シリーズ。船井幸雄の著作など→立正佼成会→上座仏教・ヴィパッサナー瞑想→プラユキ・ナラテボー師の教え、ハイブリッド心理学など→アドラー心理学、ノンデュアリティetc...

 

 

こうして、様々な思索を学んできた結果「結局、確定した答えなどどこにもない。人それぞれ、生きたいように生きるしかない」という、やや虚無的なところにたどり着いた。

 

 

しかし、それで本当に良いという確信もなかった。やはり、人間が学ぶべき真理というものは、どこかにあるのではないか? という思いも、心の片隅にはあった。

 

 

結局、「自分を拠り所にする」という境地には至れなかったんだと思う。そんな時、ある若い女性ユーチューバー(引きこもりの方)が、ひろさちやの本で救われたと話しているのを見て、久しぶりに読んでみようかと思ったのである。

 

 

わたしがひろさちやの本に傾倒していたのは20代の頃だから、ある程度の人生経験を経た今、あらためて読んでみれば、また違った感想が得られるかもと思ったのだ。

 

 

しかし再読して、最初は面白いと思ったものの、読み進めていくうちに首を傾げることも多くなった。ひろさちやは仏教全般を研究している人なので、「輪廻転生」と「極楽浄土」の話が両方出てくる。これは明らかな矛盾である。そのくせ、有名なブッダの説話「毒矢のたとえ」まで出してくるのだ。

 

毒矢のたとえ

 

お釈迦様が祇園精舎におられた時のことです。
マールンキャ・プッタというお弟子がお釈迦様にお尋ねしました。

「私達が住んでいるこの世界は、いつかまた無くなるのでしょうか?
また、この世界はどこまで続いているのでしょうか?端っこがあるのでしょうか?
仏様は、お亡くなりになった後でもおられるでしょうか、おられないのでしょうか?」

お釈迦様は静かにお答えになりました。

「マールンキャ・プッタよ。
例えば、毒の矢が飛んできて、あたったとしよう。
お医者様がやって来て、矢を抜き、薬をぬろうとすると、その人が
「いや、待て。この矢がどこから飛んできたのか、誰が射たのか。
その人はどんな人なのか、それがわからないうちは、矢を抜いてはいけない。」
と、言ったとする。
しかし、この人の言うようにしていると、その間に毒が体にまわって、
この人は死んでしまうだろう。
どんな時でも、今、何をしなければいけないのかを考えることが大切なのだ」
と、お教えになりました。

 

 

これは「死後の世界のことを考えても仕方がない」という教えだから、輪廻転生とか極楽浄土の話とは相容れないはずである。

 

 

わたしはこういうダブルスタンダードには耐えられない方だから、疑問は大きく膨らんでいった。そして極めつけは「人間は宗教によってしか救われない」という一文だ。わたしはこれに疑問というか大きな反発を感じ、それ以上本を読む気が失せてしまった。

 

 

「宗教」と「教団」ではまた意味合いが違うと思うが、わたしは宗教団体の多く(全てではない)を信用していない。ほとんどが信者を食い物にする営利企業と変わらないと思っている。

 

 

ひろさちやの言う「宗教」は、組織化された教団ではなく、宗教の教えそのものを指しているのかもしれないが、「宗教によってしか救われない」というのは、ちょっと極論だと思う。

 

 

そもそも「救い」とは何なのか。救いという言葉にだって、何通りもの解釈があるだろう。

 

 

なんて、偉そうなことを書いているわたしも、ずいぶんと傲慢である。しかし「人間は宗教によってしか救われない」という言葉に反発し、このような記事をしたためた次第。

 

 

かといって、今の自分の生き方に満足してるわけじゃないけどね。