わたしと統一教会(7) | 未知なる心へ

未知なる心へ

統一教会入信から脱会までの日々と、脱会後の魂の彷徨。

翌日、わたしはサンライズのビデオセンターに行くと、「やっぱり、入寮はできません」と断りを入れた。

 

 

すると、再度説得を試みてきたが、わたしの決心が固いとみると、「じゃあ、40トレをやろう」と、提案してきた。40トレとは、40日間毎日、ビデオセンターやホーム(寮)に通って、統一原理の学習をすることだ。

 

 

わたしは、寮に入るのは嫌だったが、通いで学ぶことに抵抗はなかったので、素直に了承した。今振り返れば、これが入信への第一歩だった。毎日、通うということは、原理研究会の一員になったも同然だった。

 

 

当時、中京大学と名城大学の原研である「孝成学舎」には、十数人の入寮メンバーがおり、何らかの事情で入寮できない、通いのメンバーも数人いた。

 

 

原研の学生は、一人前になると「前線班」に配属され、毎日、伝道活動に励むようになる。だが、わたしのような通いのメンバーは「教育部」に属し、伝道や物売りなどの、具体的な活動はしない。原理の学習と、食事当番の手伝いなど、原研の雰囲気に慣らすのが目的である。

 

 

だから、ある意味、一番「宗教団体らしい」時間を過ごせたともいえる。人集め(伝道)や金集め(物売り)をやらずに、教義の学習を中心とした、穏やかな時間を過ごせたからだ。

 

 

実際、わたしは、この通いの期間で、徐々に原研の雰囲気に馴染んでいった。平日は、大学の授業を終えた後、学舎で原理講義を受けて、夕食を皆と一緒に食べてから、家に帰る。日曜日は学舎で行われる聖日礼拝に参加し、礼拝後、皆でカレーライスを食べてから、ビデオ鑑賞などのレクリエーションに参加した。

 

 

最初はお互いに壁があったが、徐々に気心が知れてくると、原研の先輩たちは、親切で優しい人ばかりだった。原研では仲間のことを「兄弟姉妹」と呼び、男性のことは「〇〇兄(ケイ)」と呼ぶ。それは、友人も少なく孤独だったわたしにとって、初めて味わう世界だった。

 

 

40トレの間、わたしの面倒を見てくれた一人が、田中さんという女性だった。「メイル」という、寮での母親役を務める人で、皆から「田中のお姉さん」と呼ばれていた。

 

 

この田中さん、小柄で太目。黒縁の大きいメガネをかけていて、お世辞にも美人とはいえない。でも、性格が明るく朗らかで、人を引き付ける魅力があった。

 

 

わたしが入寮を決意するにあたっては、この、田中さんの存在が大きかった。最終的には田中さんの説得を受けて、入寮に同意したのである。

 

 

入寮前に、「上級3DAYS」という三日間のセミナーがあった。名古屋にあった「NHSセンター」という、原研の施設で行われ、中部ブロック(原研の活動エリアの単位。当時中部には、名古屋、岐阜、三重、石川、富山の大学が含まれていた)各地から、多くの学生が集った。

 

 

その中には、六日間セミナーで一緒だった学生も、何人かいた。このセミナーの雰囲気に馴染めたことが、わたしが入寮を決意する、ひとつの契機となった。このセミナーに集っているのは、皆、ある程度統一原理を受け入れたメンバーだったから、猜疑心が少なく、仲間意識が強かったのだ。

 

 

その中でわたしは、自分が周りに受け入れられていると実感した。浮いているとか、馴染めないとかじゃなく、自然に周りに溶け込めている感じがした。

 

 

それはわたしにとって、非常に嬉しい、画期的な出来事だった。原理が正しいとかどうとか以前に、この仲間たちと一緒に歩んでいきたいという気持ちが、自分の中に湧き上がってきた。

 

 

そして最終日、当時のブロック長の講話があった。これがなかなかのもので、わたしの心にグサグサと突き刺さってきたのである。

 

 

「人生は一度きり。とにかく、この原理が正しいかどうか、自分自身で確かめてほしい。もし、原理が間違っていると思ったら、それはその時、考えればいいじゃないか」

 

 

わたしはこの講話に、非常に触発された。自分の中で、ひとつの決心が生まれた。

 

 

「この原理が真理かどうか、自分自身で確かめてやる。そのためには、全力で、命をかけてぶつかってやる!」

 

 

(つづく)