午前4時、完全な暗闇の中、
眠気まなこをを擦りながら寝袋をたたんでバックパックに詰め込み、
宮之浦岳山頂を目指して山小屋をあとにした。
歩くにつれて風は強くなり、遂には月の光さえ雲に遮られ、
頼りになるのはヘッドライトの小さな光のみだった。
前日には縄文杉に来島の挨拶をした。
縄文杉は、何も語らなかった。
何も語らないまま、数千年の時を数えた。
そしてまた何も語らないまま、
数千年を数えるのだろう。
縄文杉を背に、更に奥へ。
目的地は次の目的地への出発地。
皆が里へと向かって帰っていく中、ただ一人山道を奥へと進んだ。
山小屋では、同じく山頂を目指す仲間に出会った。
北海道は留寿都(ルスツ)から来た彼は、僕と同じく初の縦走に挑戦。
年も近い彼とは意気投合し、三岳(焼酎)を酌み交わした。
今この時点では同じ山の頂上を目指す同志。
人と人との繋がりは限り無く平行線に近く、
微妙にぶれが生じたその一点で線と線は交わり、また遠ざかる。
一つ一つの出会いは大切にしたいと思う。
その男と2人、闇に支配されたヒメシャラの森に踏み入った。
頂上までは3時間、道のりは長い、そして暗い。
夜の山では、一歩足を踏み違えることが死に繋がる。
慎重に、着実に足を進める。
歩き始めて2時間、森を越え、急に視界が開けた。
隠されていた月が頭上に現れ、目の前に連なる山々を煌々と照らした。
見たことも無い景色だった。
さらに進むと風はやみ、辺りは徐々に月の光から朝の光へと移り変わる。
その時、僕は立ち止まる。
音が消える。
完全に音が無くなる。
動物の声も、植物の声も聞こえない。
音という音は何も聞えない。
無音という音の景色が広がり、全てを包み込んだ。
屋久島の最高峰は、屋久島のどの集落からも決して見えない、
山の奥の奥に静かにたたずむ。
そこには外の世界からは隔離された、
無音という音に包まれた世界が広がっている。
遂に山頂に辿り着いた頃には既に天気は変わっていた。
真っ白なガスが取り巻いていて何も見えなかった。
稀に顔を出す太陽も数秒後には雲の中。
景色という景色は全てガスが覆いつくした。
この日、宮之浦岳縦走の中で景色というものが広がったのは、
夜が明けて太陽が昇り始めるほんの僅かな時間だけだった。
頂上を目指してきた仲間とは、宮之浦岳山頂で別れた。
彼はまた別の山を目指し、僕もまた別の山を目指す。
次に目指したのは黒味岳山頂。
同じく何も見えない。ガスが深い。
山頂の岩の上には残酷なまでに風が吹き荒れていて、
2本の足で立ちあがるにはあまりに恐ろしすぎた。
今回の縦走は僕に課させられた試練であって、
決して景色を楽しむ為のものではなかったようだ。
視界をガスに遮られ、さらには雨にまで降られる中、黙々と山を下った。
縦走開始から約32時間、今回の最終地点である淀川登山口に到着した。
その時、僕は突然、後ろからカルマに襲われた。
カルマは後ろから左胸を刺して耳元で囁いた。
お前はまた、この山を登らなければならないと。
3日後、午前6時、僕はまた同じ登山口に立っていた。
また、この山を登らなければならない。
ガスの向こうに広がっていたはずの景色を、
今度こそはこの目で見なければいけない。
快晴、橙色の朝日が昇る中、宮之浦岳を早足で登った。
今度は全てが見える。山の向こうに山が見える。
その山の向こうにはまた、山が見える。
巨石がごろごろと転がった不思議な異次元が広がる。
何度も息切れして、立ち止まりながら、一心不乱に頂上を目指した。
ただひたすらに、その景色を一目見たいが為に。
熱病以外の何物でもなかった。
とてつもなく美しかった。
奥岳に降り積もった雪が、
太陽に照らされてキラキラと輝いていた。
この3日間のうちに、屋久島の奥岳では初雪が降ったのだった。
宮之浦岳は、雲海の上にそびえ立っていた。
分厚い雲の絨毯が引かれ、山はそれを突き抜けて空を切り裂く。
頂上からの景色は、上から順に空、海、雲、山と広がっていた。
ここは、どの世界からもほど遠い、
屋久島で最も奥まった位置にある世界。
僕の左胸を突き刺したカルマは、
無言で僕の前を通り過ぎ、南へと向かった。



