のまじんじゃ
野間神社
 
〒563-0121
大阪府豊能郡能勢町地黄399
電話:072-737-1166(宮司宅)
FAX:072-737-1166(宮司宅)
Mail:furunokamuyashiro@gmail.com
駐車場有
 
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[延喜式神名帳]  野間神社  摂津国 能勢郡鎮座
 
[現社名]  野間神社
 
[住 所] 大阪府豊能郡能勢町地黄399番地(北緯34度57分9秒,東経135度27分23秒)
 
[祭 神] 饒速日命(主祭神)、栲幡比売命、鹿屋比売命
 
[例 祭]  例祭(10月体育の日の前の日曜日)

[社 格] 延喜式内社、旧郷社

[由 緒]
・ 推古13年(605)創立。奈良石上神宮よりご神体を奉遷。
・ 天正8年(1580)織田信澄能勢へ乱入。兵火に羅り社殿、文書等が焼亡。
・ 天正19年(1581)能勢頼次氏社殿修覆。
・ 元文元年(1736)能勢頼尚氏本殿改修(現在の本殿)。
・ 宝暦年間(1751~1763)能勢頼恭氏湖北長浜の山車を参考にだんじり造営。
・ 明和元年(1764)六基のだんじり曳航(現在に至る)
・ 明治5年(1872)郷社。
・ 明治40年(1907)各村の神社十社野間神社に合祀。
・ 大正3年 (1914)野間の大けやき、野間神社に寄贈。
 
[関係氏族] 野間連(物部氏)

[鎮座地] 東郷村地黄森畑
 
[祭祀対象] 御神宝
 
[社 名]    江戸時代は「布留社」、「野間社」と称していた。

[社 殿]    本殿流造、割拝殿

[境内社]    住吉神社(弁財天社)、各地区御祭神総社、、稲荷総社、祓戸神社、七郎神社、 月読神社(平成30年創祀)
 
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 当神社は、木野川(野間川支流)の東岸近く、地黄森畑に鎮座する。
社記によると、推古天皇御代、大和国石上神宮の石窟から真勾玉241個を奉戴遷祀したともされている。
 一説には御霊代(神体)は、饒速日命が首にかけていた勾玉とされる。
 当社では、本殿に奉齋してある御霊代が水晶の勾玉であり、毎年12月に御召替と称する神事が行われていた。
(現在は途絶えている → 復興の予定あり)

 南西1Kmに合祀された蟻無神社境内に「野間の大けやき」がある。(樹齢約千年)
 この木はもともと、紀貫之を祀った蟻無神社(ありなしじんじゃ)のご神木だった。
 一説には、蔵王権現(大山祇命)をお祀りしたともいわれている。
 明治40年、蟻無神社は野間神社に合祀され、その後大けやきとともに境内も野間神社に寄贈・奉納された。
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野間神社

 当社は、第三十五代推古天皇13年(西暦605年)即ち、今より約1400年前、勅命に依り大和の布留神廟(今の石上神宮)から、布留道を通り奉遷したのである。故に当社を布留宮とも申す。
 昔は官幣社の待遇を受けていた。東能勢・歌垣・田尻・吉川の総社でもあった。例大祭には国より遣幣使も派遣されていた有名神社である。 その証として第六十代醍醐天皇の御代(西暦927年)式内社として延喜式の中に記されている。
 ご祭神は饒速日命(布留大明神)で、神霊代は命が首に懸けられていた勾玉である。
 命は神武天皇の創業の際に、子・可美真手命と共に兇族長髄彦を討って大業を翼貰をし給うた軍神であり、又、天降りの際、天神(高見産土神)より賜りし十種の神宝を以って諸病を平癒し、諸難を避け給う御神徳を兼ね備えられた神でもある。

社頭掲示板

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野間神社

 当社は、地黄字森畑に鎮座する「延喜式」内の神社である。「延喜式」神名帳能勢郡の条に、「野間神社」とある。当社の創祀を旧記にみると、推古天皇の13年(605)9月、大和国布留宮より「勾玉」の御神体を奉祭したと記されている。
 また、「能勢郡神社仏閣由来」には、天喜2甲午年(1054)に同所より遷座がなされたと記されている。つまり今の奈艮県天理市の石上神宮の分霊を布留道(布留大明神が当地へ遷座の時通つた道)「大原越え」を通り、「・・・地黄長者七郎屋敷江移ス、地黄布留大明神ト号ス」とあり、古くは社号を「布留宮」、「布留社」、「布留大明神」と呼んでいた。
 祭神は、「饒速日命」、「宇賀御魂神」、「草野姫命」、「野見宿弥」となつている。
 「饒速日命」は物部氏の祖神で、前記の石上神宮は物部氏の氏神であること、今一つには、大化前代より当地域に蟠踞していた野間の連は、「物部金連公、野間連等の祖」とあり、この地域、一帯は、物部氏の勢力下にあつて、しかもその一族の影響力の強い野間氏の氏神だった可能性がある。
 野見宿弥は、士器をつくって朝廷に献上した氏族で、その宿弥を祭神としているのは、雄略天皇期、能勢より士器を献上したという日本書紀の記述に結びつき、土師氏の祖として祭祀されたと考えられる。
 社記によれば、当社の鎮座する地域を「地黄」と呼ぶのは、前記石上神宮より御霊と共に、この地に同道した人々が持ち来たり、産出した薬草「地黄草」の名に因んだものだといわれている。平安時代の承和年中(834~48)より、当地は朝廷典薬寮の地黄御薗として、薬草の貢献が行われた。
 さらに平安時代の長暦元年(1037)、能勢採銅所の設置により、布留社(野間神社)は、同採銅所の鎮守社となり、採銅処権預(奉行)の佐伯氏が神主となって祭事を務めていたことが、最近の調査によって明らかになった。
 その後の戦乱期には、能勢氏の居城とあいまって、天正年間(1573~92)織田信澄、また隣接の塩川氏との抗争の繰り返しで、社殿をはじめ城下は度重なる兵火に見舞われ、天正16年(1588)より能勢氏伝来の領地は島津氏の領有となつた。
 天正19年(1591)9月領主島津義弘は、前領主能勢頼次等の願望を聞き入れ、頼次を本願人として社殿を再建した。この時の棟札を「東郷村誌」にみると、各村々の人数は合て1479人となり、当時の人口動静また氏子数など貴重な資料といえよう。
 その後能勢氏は、関ヶ原の役の功により旧領が復帰し、領主頼次の帰郷に際しては、当社の社庭に領民ことごとくが集まり、三日三晩祝杯をあげたと伝えている。 以後、領主能勢氏の尊崇は厚く、万治年間(1658~61)に拝殿・大鳥居を造立、元文元年(1736)には社殿の改築がなされ、また同年に並河誠所によって「野間社」の社号標も鳥居の東側に建立された。 明治40年には、領内最奇りの神社10社が当社に合祀された。
 祭事としては、古来より毎年12月に行われる「御召し替え」(御霊代である玉の包み替え)をはじめ、特に10月秋の大祭には、近郷稀な「たんじり」「しし舞い」でにぎわう豪勢な祭りがとり行われている。
                                       平成15年3月

社頭掲示板

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野間の大けやき

俗称
蟻無のけやき
野間の大ケヤキ(国)
野間稲地の旧蟻無神社境内にあって神木として保護されてきたもので、昭和二三年、国の天然記念物に指定された。幹回り10.75メートル、高さ約33メートル、枝張り東西42メートル、南北38メートル、樹齢は1000年以上と推定され、樹勢はいまでも旺盛である。梢にはたくさんのヤドリギがみられる。

社頭掲示板

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野間神社⛩
〒563-0121
大阪府豊能郡
能勢町地黄399
電話:072-737-1166(宮司宅)
Fax:072-737-1166
Mail:furunokamuyashiro@gmail.com
駐車場有