先日書いた記事ですが、あれから知人にこの話をしましたところ、面白いおはなしを聞かせてくれました。
その方が教えてくれたのは、お大師様のことで、お大師様というのは、ともに歩いてくれて、人は決してひとりではない、と言われているとのこと。(ラノベ知識)
うーん、めちゃくちゃ納得!
そしてめちゃめちゃ素敵なお話!
よくお遍路さんで、一人で歩いているようで一人ではないんだよ、といわれるんだとか
これについて素敵な法話を見つけたのでのせときます
この記事を書くために見た動画なのですが私、ちょっと不覚にも泣いてしまいました
人生を振り返ると足跡がふたつ。
しかし足跡がひとつしかない時期もある。
それはその人が孤独だったからなのでしょうか?
私なんかはついそう思ってしまいましたが、そうではなかったのです。
人生はつらく、ご飯を食べてもお腹がすくように、いっとき幸福を味わいしんどさを癒やしても、またすぐにしんどいことがたちあらわれます。
これもまた、法話で聞いた話です
このふたつのはなしを並べると、私は指輪物語を思い出します。
滅びの山まできたものの、動けなくなってしまったサムが、「あなたの役目は背負えなくても、あなたを背負って歩くことはできる!」とフロドを抱え上げるシーンは、指輪物語のなかでも大好きなシーンです。
また、サムは辛い旅路で美味しいご飯を作ってくれる存在でもあります。
んー、指輪物語って深い。
話変わりまして、まあ金色の光を見たときのあの状態、あれが一種のカミダーリ的なものだとも考えられまして
そのとき球体の謎のものにめちゃくちゃ怒られてトラウマなんですが(神様が球体に見えるという話を聞いたので、神様にメタクソに怒られたのかも)、そっちがもう本当に雷のような声だったんですよね。
あのころは、その球体のほかにも、もっと謎のものとからもたくさん声をかけられ、何が真実か分からなくなっていました。
そこから脱しようとしたときに「また来るからな」という声とともに人の皮脂を煮込んだような汚臭がしたのも覚えています。(これは普通に死霊っぽいですよね)
(このときの一連の体験というのが、実は一種のテストで、本番のテストに備えるためのものって聞いてたことを最近になって思い出しました。嫌すぎる)
まあそんなカオスの中で、ポッカリと空いた穴のように、金色の光は何も語らず、ただそばにいてくれたんですね
ああ、私、大丈夫なんだな、って思えるというとても安らかなものでした。
だいぶ忘れていましたが、思い出すとやはり大切な思い出です。
どなたがいてくれはったんかはわかりませんが、お大師様だったとしたらとても納得なはなしです