「トルストイも愛用したコンブラ瓶」 という面白いお話をご紹介します。 波佐見焼きの美しいどっしりとした役に立つ瓶の 人気度は? 長崎からオランダ商人によってドンブラコドンブラコ と船に揺られて何処に着いた! |
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●はじまりは、酒・醤油の輸出容器だった。 染付白磁の、燗付徳利に似たコンプラ瓶。 ![]() 別名”蘭瓶”とも呼ばれ、オランダ人やポルトガル人を相手にした 仲買商人「金富良商社」によって輸出されたので、その名が 付いたといわれます。 コンプラ瓶には、オランダ語でJAPANSCHZOYA(日本の醤油) 、JAPANSCHZAKY(日本の酒)と書かれた2種類があります。 日蘭貿易の最盛期・1650年頃から明治末期頃まで、醤油・酒 などを入れて、オランダ東インド会社により東南アジアや オランダ本国に、長崎・出島から盛んに輸出されました。 独自のデザインとしゃれた洋文字はオランダ人の注文で、 どっしりとした形は安定を考えたものといわれます。 ![]() ●波佐見と海外を結ぶ掛け橋に。 コンプラ瓶には、たくさんのロマンが秘められています。 @ ジャガタラお春の調度品に含まれいた. @フランスも皇帝ルイ14世が愛用していた. @ロシアの文豪・トルストイが自室の書斎の一輪挿しにして いたなど、興味の話題はつきません。 1665年から1873年まで(約200年間)、大村藩は皿山役所を 開設し、波佐見皿山の発展に力を注ぎ、 今日の波佐見焼の隆盛を築く礎となったのです。 そして貿易に携わった「金富良商社」は、皿山役所のもとで 急速に成長し海外へ進出しました。 波佐見と海外を結ぶ大きな架け橋であったコンプラ瓶の 存在は長崎出島のロマンとともに、 現在も尚、語り継がれています。 波佐見焼陶磁器工業共同組合から ![]() 桜窯さんから黒田作品ですよ。 これは手作りの陶器です。 ![]() 今日の名言 幸福は、自ら瓶の中に入れるものであり、 入っていくものではない。 コンブラ瓶より
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