生物多様性保全の流れは、意外と早く鯉釣りに影響してくると私は考えています。
ただし、これは悲観的観測です。
フツーに考えればあまり現実的ではないし、ダメな方向に考えすぎの傾向があると思っておいていいということです。ただの悲観論者(←ボク)のたわごととも言えます。
さて、
バスのことばかりを引き合いに出して、本当に申し訳ないのですが、ネットでいろいろ調べたところ、バス問題はもともと漁業被害の問題として、長い間話し合われていたようです。もともとは主に漁師と釣り関係者との争いだったようです。
それが2000年入って、生物多様性と結び付けられた時、急に話の進展が加速していったような印象を受けます。
鯉はいきなり生物多様性から話が始まっているわけです。ですから、私が話の進展が早いと思う理由は、このあたりです。
そもそも、私が生物多様性という言葉を知ったのは、恥ずかしながら、ほんの半年前のことです。愛知県で鯉を駆除するという一件からです。
それからネットでこれについていろいろ調べてみて感じたことは、「生物多様性の保全は、非常に強力な大義名分である」ということです。もちろんこれは、ある偏った視点からとらえた場合の印象です。
イメージとしては、「どこかでなんらかの決定が下されたら、当事者の人たちが、勝手にコトを進めていっても問題ないことになっている」という感じです。
例えば、鯉を駆除する場合、鯉釣りを楽しむ釣り人、鯉を放流した子供会や老人会、鯉釣りで商売をしている会社、その他鯉にかかわる人たちと、民主的に話を進めなくても、どんどん実行に移していってもいいと考えているのはないか、という印象を持っています(個人的な印象です)。
中央のお墨付きどころか、地球のお墨付きというイメージです。それほどデカイ大義名分なのだと私は思っています。
鯉釣りをしている自分は、コトの当事者だと思っていても、実際は完全にアウトオブ眼中。というか、そもそもこちらには、ハナっから話は来ないと思っておいて丁度くらいなのではないか、と考えています。
ですから、自分の意見を聞いてもらうには、自分から情報を集めたり、主体性を持って働きかけをしたりする必要があると思っています。
・・・と書くと、この人は生物多様性の保全に反対するという立場なのか、と受け取られそうですが、そうではありません。これはあくまで釣り人としての立場で考えた場合の話で、生物多様性が是か非かなんて議論は、この場合は関係あるようで関係ないのです。
というのは、地球温暖化問題と同じく、これはもう、そういうこととして世の中が動いていくんだろうな、と思うしかないわけで、こんなの誰かが考えたビジネスのネタだとか、種なんて生まれては消えるもんだろうとか、人間の営みも自然のひとつじゃないか、とか言ったところで、どうしようも無いと私は思っています。是も非もなく、もう、乗るしかないのだと思っています。
そこに鯉釣りをどう当てはめていくか。将来悲しい事態が訪れる前に、早めに落とし所を考えていきたいというのが、最近の私のネタです。
ちなみに、
鯉釣りを離れて生物多様性を考えた場合、私自身も、これはちょっとマズいなと思うことがあります。
例えば杉だらけの山です。
私はたまに渓流釣りをしに山に行きますが、その山は97%(イメージ)が杉です。うまく言えませんが、「大自然の中で釣りをしているはずなのに、そんな気がしない」という不思議な気持ちになるのです。
杉しかない山には、動物、昆虫、花、果物の気配がぜんぜん無いんです。マジで。ダンゴムシくらいしかいないじゃないかと思えるほどです。
なにかのテレビで、山の樹木や植物の構成は、海の生物にまで影響するということを言っていたような。
実は私にとって、この経験だけが、マトモに目で見ることによって得られた生物多様性を考える材料です。ですから、あえて是か非かと問われれば、多様性の保全は必要だと答えます。
話はかわりますが、
実は昨年の11月、愛知の件で、私は役所の担当部署と市の一番エライ人に、鯉の駆除に反対する内容のメールをしたことがあります。ボクって、ほとんどサヨクだな、と思いながらやってたわけですが、それはいいとして、このメールの動機(自分自身の)は、なんだったのか、ということを最近あらためて考えました。
つまり、鯉を守りたいためなのか、鯉釣りを守りたいためなのか、どちらなのかということです。
以前から言っているように、私自身の鯉釣り(キャッチ&ケア&リリース)は、自己矛盾の上に成り立っている遊びだと考えています。
極端に言えば、鯉釣りを楽しむことと、鯉の命を大切にすることとは、まったく反対の行動だと思っているのです。
鯉釣りは、鯉にダメージを与えることは必至わけで、鯉の命を大切にしたいのなら、鯉釣りをやめることが筋だということです(私なりにです)。
で、そのあたりを自問自答した時に、
「リリースした鯉が死ぬことがあるのはわかっていても、鯉釣りをやめる気がない」
「産卵期の鯉でもフツーに狙う」
「鯉がカカリに入って身動きできなくなったら、糸を切ることもある」
という気持ちや姿勢を確認しました。
このことから、自分は鯉釣りを楽しみたいんだという気持ちを優先していることに気付きました(かといって、鯉を積極的に虐待するつもりではなく、今まで通り釣り上げたらケアをしながらリリースするという矛盾行為を続けるつもりです)。
要するに、私の「鯉の駆除反対」との発言は、鯉釣りを守りたいことが動機なのです。
その現れが、前に書いた琵琶湖における自主的リリ禁のような発想になるわけです。
(ちなみに、自主的リリ禁とは積極的に鯉を駆除する活動ではありません。釣った鯉を水産資源として活用されるルートに乗せるという内容です。ただ、一方で本音を言えば、これによって世間の批判をかわし、条例や回収ボックスを未然に防ごうとすることもひとつ目的でもあります。これは偽善や目くらましともとれる行動ですが、しかし実際には微力ながら、生物多様性を守る行動に直結しているわけです。私なりに考えた精一杯の落としどころなんです)
というわけで、
今回も悲惨な話になってしまいました。
最後に、
私の悲観論通りにコトが進めば、将来鯉釣りができなくなるのではという危機感を持つ方もおられるかもしれないので、一応言っておくと、
そんなことはありません。
現時点でのバス釣りを見てもわかるように(ホント何度もすみません)、釣り自体はできます。
ただし、その方法とか心構えを少し意識しなくてはいけないような気がします。
わたし的に今のバス釣りを分類すると、
①公認釣り場でやる
②地下に潜ってやる
③一切のことを気にせずやる
こんな感じでしょうか(ごめんなさい)。
公認という言葉は適切ではないと思いますが、問題になっていない地域でやるとか、河口湖のようなところでやるということです。
地下に潜るというのは、ブログをやめ、趣味はなんですかと聞かれても「読書です」とこたえ、自分だけで、または仲間内だけで、コッソリ楽しむという感じです。
一切のことを気にしないというのは、言葉通りです。
締め付けが厳しくなると、こうなるのは世の常と言えばそうですが。
この3つのどれかを選択すれば、その釣りは続けられます(ただし③を選択する人が多ければ、締め付けは一段階引き上げられるかもしれません)。
鯉釣りがここまで行くことはないかもしれませんし、あるかもしれません。
ただ、もしこうなったとしたら、これで果たしてストレスを発散したり、幸福感を得たり、鯉釣りをライフワークにしたりできるのだろうか、という疑問があります・・・。
というわけで、今後も堂々と鯉釣りを楽しむことため、今できることをやっていこうと思います。
とりあえず前のアイデアを形にしました→Feel the carps in Japan
手持ちの写真や動画が少ないので、驚くほどショボいものになりましたが、とりあえずのイメージです。
最近、かなりヤバい橋を渡っているのが自分でもわかります。
ですから、このネタ、今回でしばらくお休みします。
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