朝日カルチャー・デビュー☆ | Daily のこちゃん

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いつもは会えなくなった人とも、つながっていられますように!

 7月8日、初めて朝日カルチャーの講義を受けてきました。

 タイトルは…じゃん!

「村上春樹を読む2013 内田樹×平川克美」

 いつ行くの?・・・いまでしょ!

 

 と、一人で盛り上がって出かけてきました。


 仲良しのお二人のこと、対談・・というより、公開雑談というかんじで、縦横無尽に話題が変わっていって、それがまた、スリリングで楽しかった。途中で、朝日カルチャーの人が、

「そろそろ、村上春樹に話題を・・・もどしてください」

とか言って、お二人がすみません・・・って感じになったんだけど、ウチダセンセとヒラカワさんの読者にとっては、この脱線ぶりこそを聴きたかったというか・・・。

 ま、タイトルに「村上春樹」ってつけちゃったから、

「村上春樹の話を聴きにきたんですよ!」

と野次ってるおばさんもいたけどね・・・。正直、そこはいい気分じゃなかったな。


 さて、肝心の対談ですが、とても刺激的な内容だったので、いくつか備忘録としてレポートしときます。


A.村上春樹は上田秋成→泉鏡花のライン上に位置する作家

「村上春樹の小説は、実はオバケの話なんですよ(『ノルウェイの森』以外)」

というお話、かなりすとんときました。たしかに、羊男とか、羊博士とか、ありえない話なのに、卒論書いてるとき、「いるかホテル」に、羊つきになった博士が、本当にいるような気持ちになったのを覚えてます。オバケの話なのに、リアリティがあるんだよな。


 内田さんは、江藤淳の「近代以前」という論文(上田秋成が一番高く評価されている)を読んでいた時に、「文学界」で村上春樹論を書くことになって、それで両者の共通性に気がついたらしいです。村上春樹も、エッセイで、上田秋成が好きって言ってるんですよね。(嫌いなのは、自然主義文学)

 とりあえず、ウチダ先生の「文学界」の論文、探して読もう・・と思いました。


 上田秋成は、「濃密な感性的性格:お化けは出るよ」という人。意味がわからない、言語化できないものの存在が描かれている。

 一番怖いのは、「吉備津の釜」ですよ・・・とおっしゃったので、帰ってきてから、問題集で「吉備津の釜」読みました。ほんと、コワカッタ~。そういえば私、確かに問題集で上田秋成読むの、好きなんだよな・・・。上田秋成も、読もう・・・。


 5月の終わりに、ミシマ社のイベントで、若松英輔さんと中島岳志さんの「死者について」という対談を聞いたのですが、そのお話とすごくつながって、わくわくしました。つまり、言語化できないものの存在を、信じられなくなったのが近代ですが、上田秋成や村上春樹は、そういうものの存在を描いているってことですね。


B.村上春樹の世界性

 またまた内田先生が、井筒俊彦の論文を読んでいてコウフンなさったというお話、これは私もドキドキしました!

 イスラム神秘主義(スーフィズム)では、深い瞑想に入ることを、地下一階、地下二階に下りて行くというが、「地下二階」に行くと見えてくる、前近代的なイマージュがあり、そこでは、「憑依される人間」を「羊男(羊の皮をかぶった男)」というそうだ。


 羊男もそうですが、地下一階、二階に下りていって、見えた世界を描くというのは、村上春樹がインタビューに答えて何度も言っている言葉です。また、初期の作品によくでる「井戸」は、世界中の神秘主義に共通するモチーフだそうです。

 村上春樹が、これだけ世界的に読まれる作家になっているのは、ローカルな話でも、人間としての普遍(文化的宗教的な蓄積)が描かれているからであるというお話でした。

 たとえばゴッホは、あの絵のように世界を見ていたとか、絶対音感がある人は、音に色彩を感じるとか(数字に色がついている人もいるそうですが)、村上氏ご自身も、本当にそういう世界を見ているのではないかという話になって、これには全く共感します。

 そして、わたしたちには見えない世界だけど、その存在は感じていて、だから彼の小説に共感するのではないか、と。


 村上春樹のエピゴーネン…文体やモチーフを真似て書く作家・・・は、見ているものが違うから、表面的には作風が似ていても、世界作家にはなっていかないというのも、納得できるなぁ。。。



C.村上春樹の「壁抜け」

 『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』『1Q84』などに顕著だが、村上春樹は「並行世界(可能性世界。ありえたかもしれない世界)」が、同時に見えていて、自由に行き来する人(壁抜け)。

 「並行世界」と現実世界との違いにフォーカスするのではなく、「どんな世界でも変わらないもの」に注目している。その「変わらないもの」が、今いる世界の、濃密なリアリティのあるものであり、普遍性のあるもの。村上作品は、「リアルとはなにか」という、根源的な問いかけを続けている。


 ここからお二人の話は、スリリングに脱線していきます。平川さんは、今小津安二郎の映画を手掛かりに、戦前昭和の蒲田を調べているらしいです。

 昭和七年ごろの蒲田は、蒲田モダンという言葉もあり、日本一美しい街だった。もし戦争がなければ、ありえたかもしれない蒲田とは・・・


「現代日本は、あるべき姿ではない気がする。戦争がなくて・・・あるいは、もっと早く終わっていれば・・現代日本はどうなっていたのか。『自力で立て直した国』としての日本は、こんなにも軽薄・浮薄な東京ではなかったのでは・・・」


 この言葉には、深く共感しました。

 

D.文学の力

 アメリカは戦争中、日本について調査し、真剣に占領施策を考えていた。

 日本は、もし本当にアメリカに勝ったらどうしようと思っていたのか?あの広大な国を、どうしようと思っていたのか?なぜそれを考えなかったのか?

 日本人は「ありえたかもしれない未来」を考えなくてはならない。並行して存在する世界について、リアルに考えることが、知性の大事な営みである。


 3.11のあとも、よくこういうことを考えます。「3.11」がない世の中には戻れないのに、放射能の恐ろしさを一番よく知っているはずの国が、まだ原発を輸出しようっていうのはなんなんだろうって。「オウム以前」にも戻れないのに、あの事件を「異常な人たちの、異常な暴走」として、集団に所属する人を排除するだけで思考をやめてしまうのは、怖くないのかなって。


「ありえたかもしれない世界のリアル」について、「あるわけがない」ではなくて、真剣に考え、その可能性を強く信じることで、現実を変える力が生まれる。たとえば「国民国家」も普遍ではない。今あることを絶対視している限り、現実は変わらない。普遍ではなく、「どうなるかわからない」ことについて、考えられるかどうかに「知性」がでてくる。「現実」の濃淡に輪郭をつけることが、文学的知性の働きであり、社会的な役割がある。

 

E.その他

 私はもう20年くらい村上春樹作品を好んでいますが、どういうところが好きなのかというと、あまりちゃんと言えないんですよね。何が起こるっていうわけでもないし。雰囲気が好きとか、「料理をつくるシーンが好き」とか、それこそ、言語化できるのはそういうところしかないかなー。


 でもお二人が、そういうことをおっしゃってて、うれしかったです。

 たとえば、平川さん・・・

「物語のディテールはどうでもいい。読むと気持ちが良い。構築的に書いてないから、作者の思考に乗っかっていける。かなりの本読みでも、村上春樹が嫌いという人も少なくないが、その人たちは、乗っかっていけないだけの話なのだろう。『世界』を二つに分ける言葉があって、分節が始まり、物語ができる。その生成に立ち合える気持ちのよさだ」


 たとえば、内田さん・・・

「村上春樹は書くことの比喩として、『穴を掘る』と変わらず述べており、『穴を掘る』というのが、本人にとって、身体実感を伴った比喩なのだということがわかる。世界作家になるためには、水脈にあたるまでの日常を、読ませなくてはならない。村上春樹は、芝を刈るとか、スパゲッティをゆでるとかの細部を生き生きと描く、真の作家である」

「村上春樹は、これまでの日本人作家が持っていなかった比喩を使う。『ラップにくるまれて冷蔵庫に放り込まれたキュウリみたいに・・』などは、道具やモノに対する共感があってこその比喩であり、共感できれば作品分析以前の話だ。」


 新しい発見があり、深く共感することもあり。

 新たな視点を持って、春樹作品を読み返したい気持ちになる対談でした★