今日は現在の社会について私が感じていることを書きます。この記事はあくまでも私見を述べたものであり、読んで不愉快にお感じになる方がありましたらご容赦ください。

 

私は昭和の高度成長時代に子供時代を過ごしましたが、その頃の日本と今の日本は同じ国とは思えないくらい変わったと思います。

昭和はノスタルジックに語られることも多いですが、実際には「雑な」時代でした。今でいうパワハラやセクハラの概念すらなく、学校でも体罰が日常的に行われていました。そして皆は世間はそういうものだと思い、極端な場合を除いてそれらが問題視されることもありませんでした。一方地域社会はまだ健在であり、大人は他人の子供でも遠慮なく叱りました。「お互い様」という精神が残っており、母親に用事があるときに子供を近所の家に預けることも気楽に行われておりました。

 

今は人権意識が高まりそのような「雑さ」は排除されました。その意味で今の社会は、「他人に不愉快を与える可能性があること」についてきめ細かく配慮する「繊細な社会」であると思います。

 

そのような繊細な配慮にも関わらず、いえむしろそれだからこそ、現在の社会は一定の規格に外れた個人に不寛容というか多様性を認めなくなっているように思われます。これは完全に私見ですが、社会生活を営む上で色々と気にしなければならないことが増えたことを、本音ではウンザリしている人が多いからかもしれません。

 

このように不寛容な社会になってしまった背景には日本の経済的な衰退があるでしょう。それに加えて欧米のキリスト教国における宗教のような、精神的な支えがないことも関係しているようにも思われます。宗教の代わりに日本では「世間」というものがあります。そのために、自分が属している共同体である「世間」に対して恥ずかしくないことが第一の規範となっており、私たちは「世間」に迷惑をかけないことを重要視して行動しています。

 

そのような不寛容さは子育てにも大きく影響しています。子供を持たない私に言う資格はありませんが、特に実家などのサポートを得られない場合の親御さんの負担は昔の比ではないと思います。さらに世間は特に母親に、周りに迷惑をかけずにきちんと子育てしろ、世間の負担となる人間にならないように母親の責任で教育しろ、というメッセージを発します。普通(この言葉は嫌いですが敢えて使用します)のお子さんの子育てでもこのような状況である中で、

ターナー症候群という、他の子供にない個性を有するお子さんを養育されている親御様の大変さは如何なるものか、と推察してもあまりあります。

 

また出生前診断が議論になっていますが、出生前診断の範囲が広がるのは、その需要が増しているからです。そして障害を持つかもしれない子供の出産を忌避する背景には、社会的不寛容さがあるのかもしれないと最近考えています。出生前診断の結果お子様を諦める選択をされる方には、障害を持つ子供の養育は大変だという気持ちがあるかもしれません。しかしそれ以上に今の世の中の空気を考えて、(普通でない)基準を外れた子供を産むことは社会に迷惑をかけるという後ろめたさと、基準を外れた子供は将来社会から排除されるのではないかという懸念も大きいのではないでしょうか。

 

しかし多様性を認めない不寛容な社会は普通の人にとっても生き難い社会ではないかと思います。他者に迷惑をかけていないと思っている「普通の人」も他人との繋がりの中で生きている訳ですし、誰だって病気や事故で他人のサポートが必要となる可能性はあります。また多様性を認めない社会では皆、自分がいつ「普通の人」でなくなってしまうかを心の底で恐れて生きていくことになりますが、それは幸福なことではありません。今の社会の繊細さの良い部分を残しつつ、多様性がもっと認められるようになればと心から思います。

 

今日もこのブログに来てくださり、ありがとうございました。