ずっとご無沙汰をして申し訳ありませんでした。
気が付いたら前回の投稿から1年もたっており、びっくりしてしまいました。私は特に変化なく、仕事をしています。
突然ですが、あなたは今、自分が幸せであると感じていますか?
60年以上生きていてこれまでの人生を振り返ると、ああ、あの時は本当に良かったなと思い返すいう時期が3、4回あります。その1回の期間は平均して4~5年位でしょうか。私の人生では環境や人間関係の変化が、たいていは4~5年の単位で起こり、その状況の変化により私の幸福感は変化しました。
私が良かったと思い返す時期でも、実際にはいろいろなトラブルや嫌なことはありました。だからその時期の最中の私は、特段に今が幸せであるという実感はありませんでした。でも今となって、しみじみと、あの時に戻りたいと思うのです。また自分が幸福であった時期に出会った友人は長続きすることが多く、何十年たっても付き合いが続いている人もいます。
もちろん楽しかった昔というのは美化されるものですから、当時のことを実際以上に良いように思い出している部分はあるでしょう。でも、その当時に自分の幸せに気が付いていれば、より自分の幸せを実感できていたのではないかと思います。
逆にうまくいかなかったと思っている時期はあまり印象に残っておらず、その時に不愉快に感じた出来事や他人の言葉ばかりを、嫌な感情と共に覚えています。また、そのような時期の人間関係は殆ど途絶えています。その時期の私の身の処し方にも問題があったのでしょう。
私は現在の自分の状態について、特に幸せであるという実感は無いけれども、ひどく辛いとは感じていません。要するにまあまあかな、という感じです。でもきっと後に、例えば健康上の問題で生活に制限がかかるような状態となったら、今の自分を結構幸せだったなと思い出すのではと思っています。
これは私だけのこのではなく、人間は一般的に、現在の幸せを感じ難く、後になってから幸せに気が付くものであるように思われます。でもそれでは何となく、人生を損しているように思いませんか?
なぜ人間は現在の幸せを自覚し難いのでしょうか。人間は幸せである状態を「普通」と感じてしまうからかもしれません。人間は自分の不幸に関しては敏感であり、時として客観的に見た場合よりも強く不幸を感じます。そして「幸福」については逆の作用が働くような気がします。例えば身体に問題がない時には健康のありがたさを意識しませんが、病気になると健康の幸せを実感します。
また自己実現の目標や欲求が高く、自分がこれくらい満たされているのは当然であると感じるのかもしれません。特に若い時には自分が持っているものを当然と感じ、その価値に気が付くのは困難であるように思います。
できれば、自分が幸せである時にそれを実感できると良いですよね。そのために、現在において大きなストレスや困難を抱えていなければ、それで幸せであると考えることも必要かもしれないと考えています。でも若い頃には、私はそのように考えることはできませんでした。
人生において、望んだ企業への就職、愛する異性との結婚、仕事での成功などの大きな幸せはあり、それは素晴らしいことでしょう。でもそのような大きな幸せではなく、ささやかな日常に幸せを見出すことができたら、より豊かな幸福を得られるように思います。
若い人はこれから挑戦や努力をして色々な物を得なければならないので、現在の状態に満足することなく貪欲であることは理に適っています。満足できないからこそ、努力して成長できるということは若い人の特権です。でももし若いあなたが幸せを感じられず、それを苦にしているならば、身近な物事に幸せを見出すことを試みてみたら、これまでとは違う景色が見えてくるかもしれません。
私の経験から考えますと、自分が希望して選んだ環境や立場にいる時には、多くの場合に幸せを感じられるように思われます。ただ人生において、自分が望んだ環境や立場を手にできることは稀であり、さらに必ずしも自分の環境や立場を選択できるというものではないので、その点は難しいですね。
色々な物事において自分と他人を比較してしまう、ということも幸せを感じ難くしているように思います。あの人はこんなに恵まれて多くの物を持っているのに、なぜ自分はそうではないのか、という気持ちを持つことは良くあることです。でも自分が羨ましいと思った人が、他人には見せない苦労を抱えていたり、持っているものを得るために多くの努力をしたかもしれません。普通の人間関係においては、かなり親しくなければ、自分の苦労や努力を他人に見せることはないので他人の実情は判りません。よって他人の比較して幸福を感じられないときには、認識に誤りがあるかもしれません。またあなた自身が、他人から見て十分に恵まれていると見られていることもあるでしょう。
ところで本日(2026年3月1日)の朝日新聞の社説に、社会保障に関する興味深い記事が掲載されていました。この記事では、社会保障の給付と負担を論じるにあたって、小西雅昭さんという方の人生について触れています。
小西雅昭さんは、なるべく社会保険料を支払わない働き方をし、65歳の時に「介護保険の強制徴収は財産権の侵害である」という投書を行いました。その投書に対する取材に対して小西さんは、「お金がなくなった飢え死にを選ぶ」と語っていました。しかしその数年後小西さんは病に倒れ、社会保障の支援を受けるようになり、社会保障を否定していた自分を見直すようになったそうです。そしてこの社説は、健康で働けている間は税や社会保険料は負担でしかないが、病を得て社会保障の恩恵を受ければ考えは変わるので、勇気ある証言者である小西さんの声を聞く価値は多いにあると結んでいます。
この社説は社会保障の是非に関するものですが、社会保障を考える上で、後になってみないと感じ難いという幸福感の特徴を意識するのは非常に重要であると思います。老齢年金には、現在は力があって負担能力がある自分(その力が如何に幸せであるかを認識することは困難ですが)から、その力を失って他者の助けが必要となる将来の自分に対する仕送りという一面があると思います。現在の老齢年金は積み立て方式ではなく賦課方式ですが、その本質は変わらないと思います。
また社会保障の本質は、生活に困難を抱えている人を社会全体で支えていくというものです。それは言い換えれば、皆の幸せを均衡化するということです。そのためにどうしても社会保障は、力や余裕がある方の負担によって困っている方を支えるということになります。現在は働いている人の社会保険料の負担がとても重くなっているので、社会的な議論となっています。私も給与から引かれる社会保険料の高さに辟易することがあり、議論は必要だと思っています。でもその議論の際に、皆の幸せを均衡化して極端に困っているひとを見捨てない、という社会保障の本質が見逃されないことを願っています。
今日もこのブログにお越し下さいまして、ありがとうございました。後半は社会保障の話となりましたが、人間の幸せのあり方と社会保障は切り離せない関係にあると私は考えています。