先日にNHKの番組で「安楽死のある国で」という番組(再放送)を放送しており、私は視聴しました。この番組は安楽死の先進国と言われるカナダの現状を取材したものです。

 

カナダでは「死への医療的援助(Medical Assistance in Dying (MAID))という制度があり、それが番組では紹介されていました。

当初は終末期であることが要件とされていましたが、2021年から死が差し迫っていない人にも適用が認められるようになりました。精神疾患を有する患者については適用外でしたが、そのような患者もMAIDの適用の対象とすることが2024年に決定されました。しかし種々の意見があり、精神疾患についてのMAIDの適用は2027年まで延期されました。

 

番組の中で介護を受けないと生活ができない障害者の方が、施設で生活することはプライバシーがなく自分にとって困難であるが、24時間の在宅介助を得ることは経済的に不可能であるとして、安楽死を求めているというケースが紹介されていました。かなりまだ元気なように見られる方が安楽死の対象となることに私は驚きました。結局その方は24時間の在宅介助のための費用の援助が認められて安楽死の申請を取り下げました。また戦場で過酷な体験をしてPTSDとなった方のケースも紹介され、耐えられない精神的な苦痛があるのに、安楽死を受けることができないことは差別的であると言っておられました。

 

安楽死の問題は本当にセンシティブであり、正解というものはありません。しかし安楽死の問題を考えるにあたって幾つかのポイントがあるように思われます。

 

安楽死を認める場合にはまず、どのような場合をその対象とするかの判断が非常に難しくなります。

緩和ケアを行ってもかなりの苦痛があることを要件とするか、そこまでの苦痛がなくても余命が6か月以内であることを要件とするか、余命宣告はなくても治すことができない疾患を有することを要件とするか、等その判断は議論が分かれるところでしょう。精神疾患を有する方の場合には、本人の意思を確認することができない場合も多いので更に困難です。認知症がある方の場合には場合には、過去に安楽死を望む意志を示していても、現在の状態において同じであるかどうかは判りません。

 

また根本的に人が自分が死ぬことについて自己決定権があるかどうか、は各自の人生観により大きく分かれるところです。

自分が死について自己決定権を有し、それを社会も認めると考えることは、ある意味で生きる勇気につながるでしょう。人間にとって先の見えない(終わりのない)ストレス・苦痛は最も耐え難いものですが、いざという時には自分でそれを終わらせることができることは安心感をもたらします。

 

一方死についてまで自己決定権を認めるべきではない、と考える方も多いかと思います。それは人間の傲慢さを戒めるという意味もあります。多くの宗教は、死は神様が決定することであって人間が自分で決定するべきではない、という教えを説いています。

 

「私は生まれた」という言葉を英語では"I was born"と言います。この"born"は"bear(産む)"の受動態であり、人は自分の意志でこの世に生まれ出るものではない、ということを表しています。死の自己決定権に関して認めるという立場と認めないという考え方の差は結局、前者は自分の意志ではなく生まれた人生だから、それを終わらせる権利はその人にあっても良いのではないかという考えを持っており、後者は与えられた人生だからこそ人はそれを全うするべきであって、自分で終わらせる権利はないという考えを持っているという差であるように思われます。

 

私個人的としては、自分の生命であっても、それを自らの意志で終わらせる権利を認めることには懐疑的です。生命は尊いものであって、自分のものであっても自由にすることができないということは、人間に根本的な謙虚さを与えます。また自分の生命でさえ自分の自由にならないからこそ、他人の生命も尊重しようという考えが肌感覚で社会に共有されます。そのような感覚が失われた社会においては、「生命を奪う」という手段が種々の問題の解決の選択肢として受け入れられるように感じ、私はそのような社会に恐怖を覚えます。また生命を尊重する気持ちが一旦社会から失われたら、それを取り戻すことは困難となるでしょう。私がそのように感じることには、無事に生まれる可能性が低いターナー症候群を有しているにもかかわらず、生を受けて普通に生活できている、という意識が影響しているかもしれません。

 

安楽死はある意味で、老人や障害者の問題に対する「安あがり」の解決策です。上記のNHKの番組でも、カナダの当局が安楽死による国の支出の削減効果を試算したことが述べられました。一旦社会保障が後退すると、社会全体が経済的な負担を避ける方向性になって行くので、再び元の水準に戻すことに理解を得ることは非常に困難となります。むしろ、更に社会保障を削減して行く方向になることは容易に予測できます。日本は同調圧力が強い国ですので安楽死が認められると、弱者や生活が困窮している人に、安楽死の選択を強要するようなことにならないか、ということが懸念されます。このような社会では、弱者は生きることを許されず、「死ぬ権利」が「死ぬ義務」に置き換えられてしますのではないか、と私は恐れます。

 

 

しかしながら医療の現場において、身動きも意志の表示もできずに病院で生かされている方がいることも事実であり、私自身もそのような状態で生きることを望んでいません。そしてそのような厳しい状況にいる方とそのご家族に対しては、何らかの救済策が必要です。それでもなお、安楽死は一旦認められると、その対象がどんどん広がるという性質があり(それを「滑り坂」理論と言います)、安易に認めることは危険であるように思われます。結論は出なくても、「死」をどのように捉えるかは、社会においても各個人においても、常に考えるべき問題であろう考えます。

 

この問題は本当に難しく、はっきりとした結論を書くことはできませんでした。でもこの記事が安楽死に対する皆さまの考えの参考になれば幸いです。本日もこのブログに来て下さいまして、ありがとうございました。