段々と暖かい日が増えてきました。春は私が好きな季節です。皆様は、如何お過ごしでしょうか。

 

以前に3人の28歳の女性にインタビューを行った時と同じように、再びタイムマシン(架空)に乗って明治40年に行って来ました。その際に東北地方の農村で、小柄な女性が川をじっと眺めているのを見かけました。少し心配となったので、声をかけて話を聞いてみました。話を聞いてい見ると、もしかしたら、その女性はターナー女性かもしれないと思いました。

以下のお話しにモデルなどは一切なく、明治時代にターナー女性はそのような人生を歩んでいたのかと考え、全て私の想像で作ったものですが、宜しければお付き合い下さいませ。

 

 

ああ、おらは大丈夫だ。でも今は知らないお人に話を聞いてもらいたい気分なので、おらの身の上話を、聞いてくらっしょ。

おらの名前は千代といい、実家の久住家は土地持ち自作農の家だった。常に小作を4人か5人ほど雇う余裕はあったから、裕福ではなかったけれども、食うに困ることはなかった。どちらかというと恵まれていたのかもしれんな。

 

おらは生まれつき身体が弱く、一人前に田畑の仕事をすることはできなかった。また女にしても身の丈が低く、15の齢になっても月のものが来ることはなかった。

お父が心配して、帝国大学の出身とかいう東京の偉いお医者の先生に診てもらった。するとその先生は難しい顔をなさり、

「15歳ならば普通は月のものが既に来ているものだが、この歳で来ていないとすると今後も難しかろう。その状態では将来妊娠することは、まず期待できん。この子のように身の丈が低い娘に特有な、妊娠することができない症例があるという報告を聞いたことがあるが、どのような病気なのか、はっきりとしたことは判っておらん。この子は身体が強くないので、あまり無理をさせぬことだ。農家の生活は大変だろうが、この子の将来についてよくよく考えてやることだな。」

と言いなさった。帰りの道でお父は一言も話さなかったことをよう覚えておる。

 

その先生の話を聞いて、お父もお母も、ずいぶんと考えこみ、嫁にやるのも不憫やから、この家でずっと暮らさせたらどうかと言った。でもお兄は、この家におらがいつまでもいると、小姑を嫌って嫁を貰えんが、それは困ると言った。父は、おらの事情だけでお兄を困らせる訳にはいかないと、ずいぶんと悩んでおった。

 

おらが17歳になったときに、近所の農家の田上家の次男である、徳治さんとの縁談が持ち上がった。その時にお父は、おらが嫁ぐ際にかなりの持参金を付けてくれた。そしてその代わりに、千代は身体が強くないから嫁ぎ先での農作業は軽くして欲しい、と頼んでくれた。田上家は昨年の水害で米が殆ど収穫できず、借金の返済のために一部の土地を手放そうとしていたが、それを久住家が肩代わりする代わりに、おらを受け入れてもらうということだった。

おらが子を持つのが難しいことについては、田上家の長男夫婦には男の子が二人おるので、下の子の次郎を、将来的に徳治さんの養子とする話があるので、それで解決するじゃろう、とお父は言った。

持参金と養子の話は、儂と田上家の家長の間で、しっかりと約束をしているので、心配せずに嫁に行けとお父に励まされた。

 

持参金については久住家の身代が減ることになるので、お父とお兄に申し訳ないと思ったが、そうでもしなければ、おらのような者の引き取り手はないだろうと思った。また兄の子を養子をとるにせよ、自分の子を持てないであろう徳治さんには申し訳ないことだとも思った。

 

田上家に嫁いで暮らしてみると、おらの実家の久住家より、金回りはずっと厳しいことに直ぐに気が付いた。千代は畑仕事があまりできないのだから、せいぜい、家内の仕事に精一杯励むようにとお義母さんに言われたが、金繰りが厳しい田上家の流儀に慣れるのは大変じゃった。

 

でも夫の徳治さんはとても穏やかで優しい人で、おらは幸せ者だと思った。農家の次男坊は、土地と金に余裕があれば分家するか、都会に出て働いて生計をたてるものだ。甲斐性なくて家に残っても厄介者扱いで、小作人の代わりにこき使われるものなので、田上家における徳治さんの立場についておらは心配していた。でも徳治さんと義兄さんはとても仲がよい兄弟で、義兄さんは徳治さんのことを厄介者どころか、とても丁寧に扱ってくれていて、おらは安心した。また次郎坊はとても可愛い子供で、人見知りをせず、おらにも直ぐに懐いてくれた。

 

嫁いでしばらくして徳治さんに、子を産めないおらと沿うのは、嫌でねえかと尋ねたことがあった。すると、次郎坊は兄さんの子だけれども、生まれてきたときから同じ家で自分の子供同様に構ってきたし、兄さんの子供なら自分の子と同じだから気にならん。お前こそ、女子の身で子を産めないのは辛かろうの、と言ってくれた。

 

おらが田上家に嫁いで3年目に実家である久住のお父は急に卒中で倒れて亡くなった。それに続くように4年目には、体調を崩していた田上のお義父さんも亡くなった。そして実家はお兄が家長となり、田上家もお義兄さんが家長となった。

 

その頃からおらも田畑に出て仕事するように言われることが多くなり、ほんに身体がきつかった。おらは嫁の身だから文句をいうことはできなかったが、田畑の仕事は軽くするという約束は、亡くなった久住のお父と田上のお義父さんの間のものでしかなかったと、つくずく思った。

 

去年には、そろそろ正式に養子縁組をしようと考えていた次郎坊までが、流行り病で亡くなってしもうた。義姉さんは半狂乱となって嘆いていたが、おらも打ちのめされてしもうた。自分の子になると思って何年も次郎坊の面倒を見てきて、おらにとっても我が子同然となっていたからの。

 

そして次第に、次郎坊が居のうなったことで、田上家におけるおらの立場が変わってしまったことに気が付いた。お義兄さんのおらに対する態度は、次第に冷たく厳しいものとなり、言いつけられる仕事も増えて行き、身体も限界に近くなっていった。徳治さんはお義兄さんにとりなしてくれたものの、殆ど聞いてはもらえなかった。次郎坊がいるからこそ、子を産めないおらにも田上家で居場所があったのだ、とつくづく思うた。

 

先日にとうとう、お義兄さんから、徳治さんと離別して欲しいという話をされた。

次郎坊が亡くなって、田上家の子は長男の長太しかいなくなってしもうた。長太と将来の嫁のみでは田上家の田畑を耕すことは無理で、田上家の将来を考えるともう一人は男の子が必要だ。そのためには何としても、徳治に子を設けてもらわねば困るので、子を産める女を徳治の嫁にしたい。千代に落ち度は無く、酷なことであることは重々承知しておるが、田上家のためにどうか聞き分けて身を引いてくれと。

 

田上家の事情は分かるが、小作を入れるなりしてどうにかならんか、どうか離別は堪忍してくれ、とおらは言った。

 

でも、小作を入れると収穫の3割5分は小作料として支払わなければならない。家内の者だけで農作業をすることで、田上家は何とか田畑を守ってきた。千代の実家の久住家にような余裕はないのは判っておろう、というのがお義兄さんの答えだった。

 

離別は夫婦の問題じゃ。とにかく徳治さんと話さねばと思った。徳治さんが、おらとの離別に納得するとは思いたくなかった。

でも徳治さんも、田上家のためにどうにか聞き分けて欲しい、と言うだけだった。

 

おらはどうしても、それで納得することはできなかった。

私は嫁ぐときに持参金を持ってきて、田上家の田畑を守ることに貢献しているのに、それは考えてくれないのか。いや何よりも、おらとあんたは何年も夫婦として仲良う暮らしてきた。次郎坊が亡くなったとはいえ、このような形で離別しても情として平気なのか、とおらは徳治さんに詰め寄った。

 

徳治さんはため息をつき、平気な訳がなかろう、と言った。

お前は身体は弱くても賢い女で、結婚したときからお前のことは好ましく思っているし、今でもその気持ちに変わりはなか。でも儂の為に家の存続を揺るがしてはご先祖様に申し訳がたたず、儂の情だけでどうにかできるものではないのじゃ。兄さと交渉してお前の持参金は、全部は無理じゃが出来るだけ返してやるから。

それと、これは言いたくなかったが、儂にも自分の血をひいた子が欲しい思いはあるのじゃ。次郎坊ならば自分の血を引いた子同然と思えたけれど、例え他家から養子をとってもそのように思うことはできん。子を持てない苦しさは、お前が誰よりも判っておろう。どうか許してくれないか。

 

この徳治さんの言葉に、おらは心底打ちのめされてしもうた。

結局は徳治さんにとって、うちが子を産めぬことが一番問題じゃったのじゃ。でも、それを承知の上でおらと夫婦になってくれたのと違うんか?おらと徳治さんは心が通い合っていたと思っていたが、それはおらの勘違いだったのか?おら達は次郎坊を介して繋っていただけで、本当には夫婦にはなれていなかったんか?

徳治さんも田上の家の者も、皆あまりにも不誠実だ、理不尽だ!そのような思いに捕らわれて歩いていたら、いつの間にかこの川辺に来てしもうた。

 

うちを心配して声をかけてくれたんな、どうもありがとう。話を聞いてもらえて、少し冷静になれた。

考えてみれば、子を持てないのはおらの事情で、徳治さんを無理に巻き込むのはいけないことかもしれん。まして持参金のことまで持ち出して徳治さんにすがろうとしたのは、恥ずかしいことやった。また農家にとって子は貴重な労働力で、それを産むのが嫁の第一の勤めじゃから、それができんおらは疎まれても仕方がないのかもしれん。

 

でも田上の家を出るとして、その後におらがどう生きて行くのか、想像がつかん。実家はお兄に代替わりしていて、おらを受け入れてもらえるとは思えんし、出戻ることができても単なる厄介者になってしまう。いっそ東京に行けば女子でも生きていける仕事があるかもしれないが、おらのような者が東京で一人でやっていけるとは思えん。

 

いや、全ておらの愚痴や。時が過ぎてしもうたが、あんたも暇ではなかろう。おらは今日のところは田上の家に戻って今後のことを考えてみる。本当にどうもありがとうな。

 

 

 

この千代さんは、もしかしたら、現代でいうターナー女性だったかもしれません。でも明治40年にはターナー症候群は知られていませんでしたし、もし診断がついたとしても、ホルモン治療など、現代におけるような治療を受けることはできませんね。

その後千代さんはどうなっただろうでしょうか?また千代さんを苦しめたのは、家父長制に基づいた家制度でしょうか、女性を縛り付ける強固なジェンダー規範でしょうか、あるいは農村の貧しさでしょうか。

この時代は子供は労働力であって、生産のために多子であることが必要とされ、子供を持たないことは許容されない、という点が現代とは異なっているように思います。そのような時代にターナー女性は、どれ程に肩身の狭い思いで生活していたのでしょうか、想像するに余りがあります。

そのような点では、この時代と比べて、ターナー女性の生き難さは軽減された部分はあるかもしれません。一方で多くの点では、ターナー女性の本質的な生き難さは変わっていないようにも思われます。

 

長文となってしまいましたが、今日もこのブログにお越しくださいましてありがとうございました。