25-4 秀吉の統一事業

 

1582年、本能寺の変(ほんのうじのへん)織田信長(おだのぶなが)が暗殺されると、豊臣(羽柴)秀吉(とよとみ(はしば)ひでよし)は短期間のうちに信長の後継者としての地位を固め、翌1583年には、石山本願寺(いしやまほんがんじあと)に壮麗な大坂城(「」の字に注意)の築城を開始した。

 

豊臣秀吉の統一事業は、強大な軍事力を背景に、朝廷の権威を最大限に利用し、惣無事(そうぶじ)を強制する、という特徴をもっていた。

また、豊臣政権は、莫大な蔵入地(くらいりち)(直轄領(ちょっかつりょう)、約200万石)、主要鉱山(天正大判(てんしょうおおばん)鋳造)・重要都市の直轄などを経済基盤とした。

 

 朝廷権威の利用

1585年、秀吉は関白(かんぱく)に就任し、翌年には太政大臣(だいじょうだいじん)になって豊臣姓(とよとみせい)を賜った。

さらに1588年、聚楽第(じゅらくてい)後陽成天皇(ごよいぜいてんのう)を迎え、諸大名に天皇と秀吉への忠誠を誓わせた。

 

 惣無事の強制

豊臣秀吉は、惣無事という方針をうちだした。

惣無事の「惣」は「総」と同意の漢字で「すべて」ということであり、「無事」は「和平・和睦(わぼく)」を意味している。

 

つまり惣無事とは、完全な和睦・あらゆる私戦(私的武力行使)の禁止を提唱するもので、この方針にもとづいて秀吉は、紛争の解決をすべて公権力に委(ゆだ)ねることを強制していった。

 

秀吉はまず、朝廷の権威(1585年の関白就任など)と巨大な軍事力を背景に、戦国諸大名に対して惣無事を強要し(惣無事令(そうぶじれい))、この命令に従わなかった大名を征討して全国統一を完成させた。

 

これによって領土紛争を武力によって解決する戦国時代が終結し、以後、近世の成立とともに、紛争の解決を公権力の裁定(さいてい)に委ねる原則が確立していった。

 

信長の統一過程

 

秀吉の統一過程