獄中生活から政界へ

 

東条内閣で商工相などを務めた岸は、戦後、A級戦犯容疑者として逮捕され、およそ3年間の獄中生活を送ったのち不起訴・釈放となった。

 

まもなく、日本再建連盟の結成(組織的には社会党右派をも射程に収めて活動しようとしたが失敗)など政界での活動を活発化させ、1953年、実弟佐藤栄作らの工作で自由党から総選挙に出馬して当選。

以後、保守勢力のなかでの地歩を急速に固めていく。

 

保守政党の左ウィングと革新政党の右ウィングが交錯するような二大政党制を主張していた岸は、党人政治家三木武吉(ぶきち)らとともに1955年の保守合同を主導し、自由民主党の初代幹事長に就任した。

 

翌年、鳩山一郎首相が日ソ国交回復を花道に引退すると、自民党次期総裁選びは、岸・石橋湛山・石井光次郎(いしいみつじろう)三者の公選となり、第1回投票で岸は1位になったものの過半数に及ばず、決選投票では2・3位連合が成立して7票差で敗れ、石橋新総裁が誕生した。

 

岸は、この時のことを「私は、はたが思うほど敗北にはこだわっていなかった。……特に衆議院段階では過半数が私に投票したと確信している。いつの日か私が国家の安危を双肩に担う日が必ず来る、という自信ができた」と回想している。

そのチャンスは、石橋首相の病気退陣により意外なほど早くめぐってくる。

 

1957年2月、岸内閣が成立した。

同内閣の最大の課題は、いうまでもなく日米安全保障条約の改定である。

 

この作業が安保闘争という空前の大衆的政治運動を生みだしていく過程を簡潔にまとめておこう。

 

日米安全保障条約

1951年9月、サンフランシスコ平和条約とともに調印された日米安全保障条約(旧安保条約)は、米軍の日本駐留権を全面的に認めながら、在日米軍の日本防衛義務や条約の有効期限を明記していないなど、片務的で不備な点が少なくなかった。

 

岸内閣は、この対米従属的な条約を対等な形式に改めようと意図したが、一方、当時の革新勢力は、その改定作業の過程で、日米関係の緊密化が戦争の危険を招くという批判を次第に強めていった。

1960年1月に調印された日米相互協力及び安全保障条約(新安保条約)は、日米経済協力の促進・日本の防衛力強化・共同防衛義務・米軍の行動に関する事前協議制などを規定し、有効期限を10年とした(以後は自動延長)。