21-4 惣村の形成と土一揆

 

中世は、社会の様々な階層に位置した人々が急速に力をつけていった時代だといってよい。

その際しばしば、日常では達成できないような目的に到達するために、人々は、同じ気持ちを共有して一体化一味同心(いちみどうしん))した集団を結成した。

これを一揆(いっき)と呼んでいる。

 

農民たちも、鎌倉時代後期以降の農業生産力の向上を背景に、みずからの手で、地縁(ちえん)にもとづく自治的な結合をつくりだしていった。

これを(そう)惣村(そうそん))といい、中世後半、畿内とその周辺地域には、多くの惣村が形成された。

 

農民の地縁的自治組織である惣村では、村民(惣百姓(そうびゃくしょう))は寄合(よりあい)という会議で、惣掟(そうおきて)(村法(そんぽう))の決定、指導者(おとな・沙汰人(さたにん))の選出などをおこない、灌漑用水(かんがいようすい)や山林・原野などの入会地(いりあいち)共同で管理した

さらに、惣掟違反や犯罪を処罰する地下検断(じげけんだん)(自検断(じけんだん))をおこない、領主への年貢納入を惣村でまとめて請け負う地下請(じげうけ)(村請(むらうけ)・百姓請(ひゃくしょううけ))によって外部勢力の介入を排除しようとした

 

強い連帯意識で結ばれた惣村の住民たちは、しばしば、強訴(ごうそ)逃散(ちょうさん)などのかたちで領主の支配に抵抗し、15世紀前半に発生する徳政一揆(とくせいいっき)土一揆(つちいっき)の母体を形成した。

 

 正長の徳政一揆(しょうちょうのとくせいいっき)

1428年、近江の馬借(ばしゃく)(運送業者)の蜂起をきっかけに、土一揆が京都の酒屋・土倉などを襲撃。

実力による債務破棄(さいむはき)などの徳政実施行動私徳政(しとくせい))が展開された。

 

 嘉吉の徳政一揆(かきつのとくせいいっき)

1441年、嘉吉の変(嘉吉の乱)をきっかけに、数万の土一揆が「代始(だいはじめ)の徳政」を要求

幕府は徳政令(とくせいれい)の発布を余儀なくされた。