21-2 嘉吉の変
6代将軍足利義教(よしのり)の守護抑圧策が強化されるなかで、不安感を強めた有力守護赤松満祐(あかまつみつすけ)は、1441年、京都の赤松邸での祝宴(しゅくえん)に義教を招いて暗殺した。
将軍の死は当時、「自業自得(じごうじとく)」「此(かく)の如(ごと)き犬死(いぬじに)、古来(こらい)例(れい)を聞かざる事なり」と評され、また、この嘉吉の変(かきつのへん)(嘉吉の乱)直後に、「代始(だいはじ)めの徳政」を要求する嘉吉の徳政一揆(とくせいいっき)が発生した。
こうして幕府政治はますます混迷の度を深め、1467年、戦国時代の到来を告げる応仁の乱(おうにんのらん)がはじまることになる。
21-3 応仁の乱
応仁の乱は、
➊将軍家の家督(かとく)相続争い
(8代将軍足利義政(よしまさ)の弟義視(よしみ)と義政の子で妻日野富子(ひのとみこ)の生んだ義尚(よしひさ))、
➋管領家畠山(はたけやま)・斯波(しば)両氏の内紛に、
➌幕府の実権掌握を狙う細川勝元(ほそかわかつもと)と山名持豊(やまなもちとよ)(宗全(そうぜん))の対立
がからんで発生した。
それは、11年におよぶ京都を主戦場とする争乱(1467~1477)へと発展していった。
応仁の乱の結果、京都が荒廃し、幕府の衰亡・荘園制の衰退が決定的になった。
また、全体として下剋上(げこくじょう)の風潮が強まり、戦国大名(せんごくだいみょう)の成長が促された。
【応仁の乱における対立関係(1468年頃)】
【戦国期の京都】
戦国期における京都の規模は、
上京(かみぎょう)が東西1.4km、南北1.7km、
下京(しもぎょう)が東西0.9km、南北1.8km程度に縮小した。