*以下の文章は2016年10月初旬に掲載したものです。
再掲載するにあたり、あちこち微修正しました。
皆さん、こんにちは。
いつもありがとう。
数は多くありませんが、受験までまだ時間がある、でもそろそろ本気になってきた 高校2年生 からの相談も、ぽつりぽつり届く季節になりました。
皆さんには、少しだけ先の地点から、今を見つめ直すという視点を持ってほしいと願っています。
「少しだけ先の地点」として、志望する大学に現代経済を分析している研究者がいると想定してみます。
彼は、ある年は世界史、ある年は日本史の問題作成(いずれも近現代史)に欠かせないメンバーになっているはずです。
難関大学における近現代史の出題率は6割を突破していて、多くの大学で出題者それ自体、あるいは彼らの経験・蓄積、いずれかの不足が慢性化しています。
さらに小規模な大学であれば、この研究者は、英語長文の題材収集を担当したり、数学の問題作成を余儀なくされたり、現代文の問題検討会議で呻吟(しんぎん)したり、といった苦労をしているかもしれません。
実例も聞いています。
全員ではありませんが、大半の大学教員にはその程度の力はあるはずです。
何より、日本史の入試問題でも毎年散見される“初々しさ”が、そうした実態をよく示しています。
何が言いたいかというと、この程度の簡単な検討からもわかるように、今、皆さんが学んでいることのほとんどは、相互に通底する部分を有しています。
科目ごとに表札が異なっているように見えても、そのドアを開けて歩いていくと、実は同じような分析法・思考法・発想法にたどりつくことが多いのです。
そうであるなら、受験に必要か否かといった安直な考え方は捨て去ったほうがいいですよね。
そうした、心の若年性緑内障とでも形容したくなるような、狭小な世界観にとらわれる者、言いかえると、眼前の利益にしか反応しようとしない精神は、ある栄養素が健康にいいと聞いてサプリメントだけで日々を送る行為に似ていて、いかにも愚かです。
大学入試は科目別なので、もしかすると、それで乗り切れるかもしれない。
でも、それは入学式の日が“人生の頂点”になる、なんとも哀しくて切ない結末を招くだけ。
いうまでもなく僕は、入学後の様子まで関知する立場にはありません。
しかし、それでも今までに、そうした実例を残念な気持ちで眺めざるをえなかったことが何度かあります。
モチベーションをあげつつある 高校2年生 の皆さん。
来年の今頃は、どうしたって偏食を余儀なくされます。
少しくらい臭いがきつくても、それらをきちんと受けとめて、いつでも受験勉強を本格的に開始できるだけの強い肉体の形成に全力をあげてください。