9-4 律令体制の再建と変質

 

桓武天皇(かんむてんのう)は、政治改革にも積極的にとりくんだ。

 

 行政改革

国司の不正を正すため勘解由使(かげゆし)を設置。

国司交代の際に、後任者が前任者にわたす書類(解由状(げゆじょう))の審査を厳重にした。

また,班田励行(はんでんれいこう)を図り,一紀一班(いっきいっぱん)とした(一紀=12年)。

 

 軍制改革

東北・九州地方以外の軍団制(ぐんだんせい)を廃止し、治安維持を担(にな)国衙(こくが)の守備兵(しゅびへい)として、新たに郡司(ぐんじ)の子弟などを健児(こんでい)とした(国家間戦争を想定した軍制から治安維持目的の軍制へ)。

 

 軍事(ぐんじ)と造作(ぞうさく)をめぐる議論

桓武天皇が一貫して追求してきた対蝦夷戦争(たいえみしせんそう)(軍事)と平安京造営事業(造作)は、一方で国家財政や民衆にとって大きな負担になった。

805年、軍事と造作の可否(かひ)を論じた「天下徳政相論(てんかとくせいそうろん)」(徳政論争、必読史料)を経て、ついにこの二大事業の中止が宣言された。