5-1 唐帝国の成立と大化改新

 

618年、中国では隋(ずい)が滅んで(とう)が成立した。

 

唐帝国は律令法にもとづく強力な中央集権国家へと成長し、周辺諸国を軍事的に圧迫していった。

唐から帰国した留学生・学問僧は、その最新情報を日本にもたらすことになる。

 

一方、国内では蘇我蝦夷(そがのえみし)入鹿(いるか)が権力を掌握し、643年には厩戸王(うまやとおう)(聖徳太子)の子山背大兄王(やましろのおおえのおう)が自殺に追いこまれるという事件も発生した。

 

このような情勢のなかで、645年、中臣鎌足(なかとみのかまたり)(のち藤原鎌足)と中大兄皇子(なかのおおえのみこ)は、集権体制の確立をめざすクーデタを敢行して蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼし(乙巳の変(いっしのへん))、次のような政策を実行に移していった(大化改新(たいかのかいしん))。

 

 年号と遷都

年号を大化(初の年号)とし、東アジアの動乱に備えるため、都を飛鳥(あすか)から難波(なにわ)に遷都(せんと)した。

 

 改新の詔(かいしんのみことのり)

改新の詔(646年正月)を発し、公地公民制(こうちこうみんせい)・班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)など中央集権国家建設の基本方針を明示した。

 

しかし、改新の詔が示した方針を実行に移すのは容易ではなく、実現までの過程は波乱(はらん)に満ちたものになる。