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「昭和天皇7つの謎」(『歴史読本』新人物往来社、2003年12月号)の②「天皇は『昭和天皇独白録』で何を語ったのか? 『独白録』の衝撃」です。

 

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天皇は『昭和天皇独白録』で

何を語ったのか?

 

『独白録』の衝撃

 

1990(平成2)年に『昭和天皇独白録』が公開された。

 

これは、1946(昭和21)年3月から4月にかけて、5人の側近(松平慶民(まつだいらよしたみ)宮内大臣・松平康昌(やすまさ)宗秩寮(そうちつりょう)総裁・木下道雄(きのしたみちお)侍従次長・稲田周一(いなだしゅういち)内記部長・寺崎英成(てらさきひでなり)御用掛)が昭和天皇の話を聞き、その折に稲田が作成した正式記録をもとに寺崎が作成したものである。

 

この『独白録』は、人々に衝撃を与えるに十分な内容を有していた。

しかしそれは、昭和史に関して新たな真実が明らかになったからではない。

 

第1の驚きは、昭和戦前期に主要な役割を果たした政治的人物に対して、天皇がかなり率直な人物評を下していた点にあった。

 

そして第2の驚きは、1946年3月から4月という、極東国際軍事裁判開廷を控えて国際検察局(IPS)がA級戦犯容疑者の選定作業をおこなっていた時期に、天皇が張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件(満州某重大事件)によってもたらされた田中義一(たなかぎいち)内閣総辞職の事情を語る、そのトーンとタイミングにあったといってよいだろう。

 

それは、次のような内容をもつものであった。

 

即位したての若き日、爆殺事件の犯人(関東軍高級参謀河本大作(こうもとだいさく)処罰についての内閣の決定に不満であった天皇は、田中首相を辞職に追いこんでしまった。

のちに天皇は、その若き日の行為を反省した。

 

つまり、内閣の決定した行為に対して、天皇が「好む所は裁可し、好まざる所は裁可しない」というのでは、専制君主と同じである。

このように悟った天皇は、「内閣の上奏する所のものは仮令(たとえ)自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与へる事」にした。

 

よって、東条英機(とうじょうひでき)内閣の開戦決定に不満であったけれども、「立憲政治下に於(おけ)る立憲君主」として、そのまま裁可を与えたのだ――。

 

『独白録』中の天皇は、太平洋戦争の開戦経緯をこのように振り返っている。