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じめじめした天候をはねのけて読む解く努力を重ねてくれている皆さん、本当にありがとう。

 

「昭和天皇7つの謎」(『歴史読本』新人物往来社、2003年12月号)の①「ヨーロッパ外遊前の態度に問題があったというのは本当か? 箱入り御教育の結果(2)」です。

 

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箱入り御教育の結果(2)

 

比較的早い段階で皇太子の態度に問題を感じた人物に、枢密顧問官(すうみつこもんかん)三浦梧楼(みうらごろう)がいる。

1919(大正8)年5月7日、裕仁皇太子は18歳の成年式を迎え、同月10日、霞ヶ関離宮において盛大な祝賀会が挙行された。

そこでの皇太子の態度に、三浦は大いなる不満を感じたのである。

 

のちに東宮武官長となる奈良武次(ならたけじ)の記録には、「(皇太子が――カッコ内は引用者注、以下同様)着席遊ばされたるのみにて何にも御話し遊ばされず、何か御話し申し上げても殆(ほとん)ど御応答なき状態」であったと記されている。

 

皇太子は自らが主役である晩餐会の席上、期待されたような立ち居振る舞いができなかった。

三浦は、東宮御学問所の「箱入り御教育」がこのような皇太子の態度の原因であるとして、皇太子教育の責に任ずる東宮大夫(とうぐうだいぶ)浜尾新(はまおあらた)を衆人の見守るなかで面罵におよんだ。

 

原敬の憂慮にも深いものがあった。

1919(大正8)年11月6日、山県有朋に面会した際、「皇太子殿下に今少しく政事及び人に接せらるる事等に御慣(おなれ)遊ばさるる必要あり」と語り、この問題を国家重大事件ととらえていた。

 

対する山県も、昔を思い出しつつ「先帝(明治天皇のこと)は勿論、今上陛下(大正天皇のこと)皇太子の御時代にも硬骨漢も御附にあり御学友も御遠慮せざりし」などと語り、現在の皇太子に対して周囲が気を遣いすぎるのがいけないのであって、三浦梧楼のような「硬骨漢」を側近につけるのもよい、という意向を伝えた。

 

原と山県は、政治に対する姿勢という点では大きく隔たっていたが、皇太子に世間をみせて実のある教育を施す必要性を痛感し、この問題を国家的な重要事ととらえる点では、意見が完全に一致していた。