心に釣糸を垂れるようなこの活動を
残酷で痛みの伴うものとだけ思うのですか?
だから、もしそこへ向かって背中を押したのが自分だとすれば、責任を感じて謝るのてすか?
それは臆病というやつだ。
いま、死というものを考えていた。

死ぬことを考えるとき
僕達は自分の死を経験することはできないから
常に他人の死を通してそれを考えるしかない。
僕達は死ぬと死者になる。
生き残った人達の中で死者になる。
だからお葬式とか、お盆とかは
実は、生き残った人達の中で死んだ人達を死者として受け入れるための装置。
僕達は死を考えるとき
生き残った人達の心にどんな風に残るのかを考えなければいけない。
生きることがゆっくりと死ぬことであるとすれば
僕達は死んだ後にどんな風に記憶されていくのかを
常に考えて生きなければいけない。


これは真理かもしれない。
気持ちいい程にすっきりした説明で
まったく答えと言っても差し支えないくらいに思える。

でも、こういう真理や答えの中に詩は無い。
僕の人生はこういう真理や答えが初めから示されていて
その絶対的な力から逃れて
本当にこの真理や答えは正しいのかと模索することの連続だった。
しかしたとえ僕や貴方や世界中の人がそれを認めなかったとしても
真理や答えはただ截然としてあり続ける。
それに対峙するために唯一手にできる武器が詩であるのかもしれないと考えながら、いま眠りに落ちる。
あるいは眠りに落ちるその瞬間のように、思いもかけない所に本当の死が、詞が、あるのかもしれない。


いま、詞というものを考えていた。
友人に樋口というバカがいる。
バカというのは気持ちのいいバカで、一緒にいるとスカッとする奴だ。
樋口は脳ミソ使って物を考えない。行動で考える。
と言えば少し格好良すぎるか。

僕は樋口とは違って、それはもう考えすぎる程に考える。
長い間考えていた末、結局何もできないで終わってしまうことが多々ある。
まだ学生だった時分、初めて女の子と布団に入ったときもそうだった。
僕にしては珍しく、大胆な、見事なペッティングであったと思う。だけども、いざというときにはやっぱり駄目だった。
本人の中では非常に複雑な思考が渦巻いているのだけど、実際客観的にみれば
もう、なんというか、怖じけづくわけである。
よくわからない言葉で誤魔化して逃げようとする。
あの日僕は結局
「いやあ、ホントに綺麗だ。うん。蝋人形みたいだ」
とか言って本番をしなかった。
今思い出しても最悪の恥ずかしさだ。なんだ、蝋人形って。

そんな話はどうでもよくて、こんな僕なのに樋口とはすこぶる仲が良い。
むしろこんな僕だから、という方が正しいのかもしれない。
僕は樋口のバカを尊敬しているトコロがある。
樋口のバカは爽やかなバカだ。潔い。
自分の行動に関して他人に与える迷惑とかそういうものを、自分の中で想像して躊躇したり抑制したり、が無い。
これが不思議に無責任ではないのは、樋口の思考が頭の外で行われているからだ。
行動で考えるとはそのことで、周りの環境とでもいうのか居合わせた人達が樋口の思考をする。
全然上手く言えないが、他人事ではなくてアタフタとなる。
樋口も一緒にアタフタする。
するともう、全員が樋口の思考なのだ。
そうさせる力のあるバカなのだ。

学生最後の夏に、気の合う何人かで沖縄に行った。
夏といってももう10月とか11月でほとんど秋の空気になっていたが、沖縄は暑かった。そんな時期。
八重山諸島の南の方に波照間島という島があって、そこの浜がほぼ貸し切りのような状態で使えた。
僕らはもちろん海に飛び込んで、砂に潜り込んでくたくたになるまで遊んだ。
それでも沖縄の太陽は高く輝いていて暮れるつもりなんか皆目無いようで、ヌラヌラ降る日差しの中で僕達は海にプカプカ浮かんで休んだ。
遠浅の海。
全員がプカプカ思いに耽った。
ヌラヌラ太陽である。
静かだった。
でもやっぱり樋口は樋口だった。
一人ムックリ起き上がった彼はパンツをはいていなかった。
つまり全裸であった。
しかも何故か勃起していて、沖縄の海で必死に腰を振りながら叫ぶのだ。
「地球ー!!おい!地球ー!!あー!!」
全員がプカプカ笑って、僕は勢いで海水も飲んでしまった。
バカの思考はあのとき海まで巻き込んでいた気がする。