遠くっていったいどれくらい遠くのこと
遠くに行きたいと思った僕たちの
遠くっていったいどれくらい
遠くのこと

大人になりきらない僕たちは
きっと地球の裏側まで行けてしまう
羽田までレンタカーを借りて
そのまま乗り捨てて飛行機に乗って
そんなふうに遠くへ行ける

夜明け前の国道沿いを歩く僕たちを
軽快な自転車が追い越して
そのモールトンの自転車を
巨大なトラックが追い越して
川の向こうに見える橋には
朝日が昇ると新幹線が時速200キロで駆け抜ける

僕たちが大人になると
遠くはずっと向こうに行ってしまう
あの頃の僕たちが手を伸ばせば掴んでしまいそうだった場所は
いまいったいどこにあるんだろう

距離や速さが相対的なものだとして
それでも多分
彼らの口にした遠くは
1号線に立つ看板の数字とは関係ない
日常や自分が在って
そこからの隔たりを感じていた世界の
どこかにあるイーハトーヴのこと
それとも、ネバーランド
核を間違えなければいいのだ
それは持っていればすぐわかる
本物か贋作かどうかも
自分だけは知っている

それさえあれば全て作り出せる
全ては演繹なのだ
核から事象への道のりや進み方は
ここにまさに努力があるわけで
それが人間の営みや鍛錬であるわけで
しかしつまり
この前提はすべて
核ひとつである
電車は嫌なの。
私の事とは全く無関係に、時間通り動いてる感じが。
たとえば使い慣れた通学の電車でさえ、ふとした拍子に寝過ごして、気づけば見も知らない街まで運んでいってしまうような。そしてその街は、全然来たかったようなところではなくて、本当にただ線路が繋がっているからっていう理由だけでたどり着くところ。乗り合わせた乗客たちは不自然な距離感で他人を装っている。
ようはそれが私の感じている漠然としたこれからの自分と、それにまつわる不安のそのままであることが、言葉にならないままで胸の中に漂っているのだった。だから私は、ゆっくりでもいい、分岐路に立つ度に選択をし、模糊とした自分の意識で進路を選びとっていかなければならなかった。
そういう意味からも、樹達との逃避行の手段は電車であってはいけなかった。