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陽が高くなり、日向ひなたはより、心地がよくなる。

 

 

真夏場のうだるような湿気の中の日差しではとてもとても、寝るどころか命に関わる。

 

 

しかし、そうでない時期の、どうかすれば肌寒い時期の日向ぼっこほど、生き物が太陽のもとで生きていることを実感できる場所も、早々無いものだろう。

 

 

買い物に行くどころかすっかり寝入ってしまった。

 

あの時間だからどこの店に行ったとしても、朝が早すぎてやってはいない。

 

 

インターネットで注文して、ドローンに運んでもらっていれば、とっくに事足りていただろうに、それ・・をやらないのがわたしである。

 

 

雨の日や需要が高くなる時間や時期に重なろうものなら、少し割高になる。

 

いくらベーシックインカムとは別に、会社から給料をもらっている身分で余裕があるとはいえ、余計に支払わずに済むのならばそれに越したことはないはずだ。

 

今後のわたしに期待である。

 

 

今は医療は必須ではない。

 

臓器移植意思表示の仕組みは今でもあるが、幹細胞培養組織移植手術が発展した現在ではあくまで予備制度的な仕組みに落ち着いている。

 

 

あらかじめ、行政が提供する自分用の情報を登録しておくウェブサイトで、任意ではあるが、もし提供をしたいと望めばそう登録しておけばいい。

 

 

もし、意識が無い状態で緊急搬送された場合、命に関わるようであれば一旦処置を施しつつ、指紋認証で行政に登録してある個人情報を確認される。

 

 

そのため、延命措置を望むかどうかをあらかじめ意思表示しておく必要がある。初期設定では「延命措置を希望する」となっているはずだ。

 

 

現在はベーシックインカム制度に主力の財源が割り当てられているため、国民全員に安く医療制度を提供することはできない。

 

 

子供か、生産年齢人口に当てはまれば財団が補助か負担してくれる。

 

昔の健康保険組織が財団化した組織だ。

 

もちろん高齢人口に当てはまる場合であっても、重要な役職に就き、なお現役で活躍している人は問題なく負担してくれるはずだ。

 

もっとも、そんな人は医療費くらい自分のポケットマネーで支払える能力があるので特に誰も気にしてなんかいない。

 

 

むしろ、政治の世界に関わっている場合、財団に余計な圧力を加えて何もしないとなると、簡単に政敵を消すことができてしまうため、重要な人たちは自分の身体は自分で守ることを常に意識している。

 

 

その代わり、どこに入院しようがどれだけ命に関わりが無い範囲で贅沢に過ごそうが誰からも文句は言われないわけだ。

 

 

ただ、そうした節操がないような人たちは稀にいるようだが、表向きイメージが大変よろしくない事もあって、あまりそういう話は聞かない。

 

 

国の人口が、今なお控えめである今の時代で、下手なことをするとあっという間に噂が広まってしまうからだ。

 

 

日本は幸いにして民主主義を貫けているが、一方で世界を見渡すとまだ王族が支配する国、権威主義の国も少なくない。

 

 

宗教により統率されている国も古来よりあるために、完全民主主義の概念がそもそも浸透しない。

 

いわゆる、「王」がいないと逆に不安になるようだ。

 

ただ、王族がそれで好き勝手するわけでもなく、不敬の罪という地雷を踏みさえしなければ、基本的に個人単位では自由に過ごせるはずだ。

 

王は古来より世襲で、他の人間が替われるものではない。

 

その権威がある限り、従来のやり方を続けることが出来るわけであって、王がたみに恐怖政治を敷こうものなら、いずれ革命の日が訪れることを彼らはよく知っている。

 

 

王族が王族としてあり続けたいのだから、下手なことはできないわけだ。

 

 

一方で、ただの庶民が王のように振る舞うようになった国もある。

 

その権力を手放したくないばかりに独裁へと突き進んだ国家は、外国との壁を築き、その壁を守ることで必死だった。

 

 

体制に異を唱える者あればことごとく逮捕し、行方知れずとなった国民も多かったという。

 

当然、他国からは非難を浴びる。

 

そうすると、自国の政治に干渉をするな、尊重しろと反発をするわけだ。

意味が解らない。
 

命よりも政治を尊重しろと言う。

 

 

大昔の東西ドイツのように、バランスが崩れれば一気に体制は崩壊する。

その時に、散々恐怖政治を強いた体制はどのように扱われるだろうか。

 

さながら戦争犯罪人のような扱いを受けるだろう。

虐げられてきた国民の手による処刑か、あるいは。


いずれにしろ明るい未来なんか無い。

あるわけがない。

 

 

体制の調子がいい時はまだいい。

 

国民は粛清されることを恐れ、しかも指導者がいないと不安ときた。

 

言われるだけのことをすることが元来、楽な人間にとっては都合が良い。

誰かが自分の責任を被ってくれて、常に被害者の立場に居れるのだから。

 

 

ただ、そのツケは必ず支払うことになる。

自分の娘を差し出せと言われれば、そうせざるを得ない。
 

歯向かえば簡単に首が飛ぶだろう。

他には?労働搾取か?
キリなんかない。

 

体制が崩壊することを祈るしかなくなるわけだ。

 

 

そんな見せかけの権威主義は、法律で男を女に変える自由主義を笑う。

一方で自由主義は、他人任せの自分勝手な見せかけの権威主義を笑う。

 

両者の妥協点なんかあるわけがない。

根本的に違うからだ。
 

どちらかが滅びるまで、どちらが正義なのか戦う事になる。

 

 

そんな間抜けな戦争は、長引くかと思いきやあっけなく終わりを迎えた。

20世紀の終わりくらいにも同じような事があったそうだ。

 

 

競争原理が働き、リソースが有り余る自由主義の前に、固定された新陳代謝が効かない見せかけの権威主義はあまりに脆かった。

 

国民は、作られた経済発展地域では、それなりに豊かに生活できた者もそれなりに居たものの、許可が下りずに出入りできなかった辺境の国民は貧しさの中に置いてけぼりにされ、経済発展地域を支えるという二重搾取の構造だった。

 

 

その互いの壁が崩壊した時に、高いところから低いところへと水が流れるように、富が地方に分散流出、それまで築いた時代を一気に遡ったのだった。

 

 

それまで貧乏だった地域は、都市を支えるために貢がずともよくなり、生活事情が改善したという。

 

 

反対に、それまでそんな地域の犠牲の上に胡坐あぐらをかいていた者たちは、店から品物が消え失せ、胃袋を満たすことの無い建造物とモニュメントだけが残ったという。

 

 

くしゅんっ

 

昼寝というには豪快な日向ぼっこは、この一吹きで終わりを告げた。

 

気づけば、時計は午後も3時近くを漂っていた。

 

 

しまった。

 

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この物語はフィクションであり、実在する人物や団体とは一切関係がありません。架空の創作物語です。

この作品は2024年3月2日にnote.comへ掲載したものです。