天正14年(1586年)12月、「戸次川の合戦」に勝利した島津勢は
いよいよ府内へと進攻を始めます。
目標となったのは、府内にある大友屋敷と鶴崎にある鶴崎城でした。
府内にある大友屋敷には「大友宗麟」の嫡男である「大友義統(よしむね)」が
守りを固めている・・・・・・はずだったのですが、
事もあろうか義統は府内の大友屋敷を捨て高崎山城へ・・・・・。
更に安心院の「竜王城」まで逃げ延びる始末・・・・・・・。
一方・・・・・「鶴崎城」のほうは・・・・・と言うと、
城主である「吉岡甚吉(統増)」は主だった家臣と共に宗麟の居る「丹生島城」へ
行っており、城に残るのは甚吉の母親である
「吉岡妙林尼(よしおか みょうりんに)」とわずかな兵のみといった状態でした。
こんないつ逃げ出しても当然な状態にも関わらず、吉岡妙林尼は島津勢を
迎え撃つ準備を始めます。
当時の鶴崎城は、今の鶴崎小学校・鶴崎高校周辺にあったそうです。
( 鶴崎小学校の校門付近にこのような碑が立っています )
城は平城でしたが左右を乙津川と大野川に挟まれ、また後ろは別府湾と
3方を自然の堀に囲まれた構えをしていました。
妙林尼は、城へ向かう唯一の陸地である「通称:琵琶の首」辺りに
柵や落とし穴を作らせました。
(琵琶の首・・・現在の大分市鶴崎の国宗天満宮付近の事だそうです)
落とし穴に落ちた兵たちを地元の百姓などで組織した鉄砲隊が襲撃し
島津勢に大きな損害を与えたと言われています。
この後も16回に及ぶ島津勢の攻撃を妙林尼の機略によって防ぎ
城を守りぬいたそうです。