居場所が無いある意味の心地良さ | この辺りの見所の者

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気ままなブログです。

秋田県湯沢市で生まれ、神奈川湘南(藤沢)、東京、伊勢、大阪に住んでいた。現在は秋田県帰郷している。

生まれたのが、たまたま秋田県で居場所だと思えた事はあまり無い。

場に執着するのが嫌いなのかなと思っていたりする。場を信じない。場から感じる磁場が好きでは無いのかも知れない。信じるのは自分だけ。

どうやら、固定種にはなれないタイプみたいだ。(野菜の種)


何故、こんなブログを深夜に書いているのかというと、日曜日にとあるカフェに初めて行ったとき、店内には自分より歳上だと思われるマスターと常連三人がいた。場の空間に初見の客である自分が入って、明らかに店内の空気は変わってやや硬直。そんなのは秋田に限らず、全国でもそんなもん。(周りが自分に慣れると場は心地良くなる。)

気にせずテーブルに座る。少ししてから、マスターと常連三人が話し始めた。それをスマホいじるフリして耳をダンボ。ユーミンがファミレスで客の会話に耳ダンボしていた時と似た状態。

昔はヤンチャだったっぽい常連は、米軍基地の話しを始めて、マックの食べ方のアメリカ人と日本人の食べ方の話しになった。カフェエコーチェンバーの会話。その外側の壁に耳を当てて聞いている感覚。不思議なもんで居場所は無いけど何故が心地良い。


その日は、秋田文化創造館でのパフォーマンスに遅れて観に行くとパフォーマンスは終わっていた。別のブログに書いたけどパフォーマー達が円に並んて座っていた。その円も、またある意味エコーチェンバー。パフォーマーの1人がエコーチェンバーの扉を開けてくれたが、自分は無意識に断り、円の外側に座る。

居場所を自分から断ったが心地良い。何故か。中な入りすぎると抜け出せなくなると云う感覚が小さい頃から身に付いている他にならない。外側の立ち位置を崩さなかった。


居場所とは物理的な場ではなく、自分の心にある場所が居場所なのだ。最近、住んでた場所の心の居場所感の再現ができている。状況に応じて心の居場所を変えれるのは、悪くない。


野次馬であり、異分子である事に心地良さを感じているのは自分だけなのだろうか。