↑のつづき。
さて、翌日。
2024年8月末。
台風が最接近するかもしれなかったため、
安全に行こうと思い、徒歩圏内を散策。

徳島駅のすぐ近く。
目的は徳島中央公園内にある『城山』。
標高約61.7mの小高い山で、
古くは「渭山(いざん)」や
「猪山(いのやま)」とも呼ばれていた。
阿波(粟)国は古代、『イの国』だった。

『城山』の石垣。
かつて、ここは徳島城だった。
そして、
徳島城が築造されるより以前には、
日本の古代史において最も重要な
女神の一柱が祀られていたのである。

ここは、かつて小島であり、
この一帯は以乃津とも呼ばれた。

カラスがいたので道案内をお願いした(笑)


今回のテーマは『清玄坊の祟り』。
その物語の始まりは、
かつて阿波国に入国した蜂須賀公が
以乃津の突端に玉のように
ぽつんとあった小島を本城とした
海城(ウミシロ)の建築を決めたことによる。
龍王 豊玉姫。
その殯宮は、
『玉のような小島』だったと云われている。


『竜王さんのクス』。
樹齢推定600年。
なぜ『竜王』なのかと言えば、
付近に『竜王宮』が鎮座していたからである。
今は、もうない。。





すごく存在感がある。
その佇まいからも、竜王の名に恥じない。


まるで龍の鱗だ。


阿波猫が現れた。


阿波猫とお別れして、さらに城山を散策。




『徳島鉄道年表』。
興味が湧いたので、
周辺をうろちょろしてみる。

園内に線路があった。

『8620形式蒸気機関車』。
大正12年から昭和44年まで
実際に徳島県内を走っていた車両。
引退後、長年地域の人々に親しまれた
歴史を伝えるため、
公園内に保存展示されている。
また、
昔の駅舎を再現した建物とともに展示され、
鉄道の記憶と文化を
後世に伝える役割も担っている。


さて、徳島城跡。
城山頂上をめざして登る。
晴れてよかった。
















そして、山頂。


徳島城 本丸跡。

見えた❗
この日最大の目的である神社は
小さな祠だった。

徳島公園内の城山山頂、
徳島城本丸跡地に鎮座する
『清玄坊神社』。
山頂には元々『天石門別豊玉龍王宮』が
鎮座していた。
それを守っていたのが『清玄坊』である。
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豊臣秀吉に仕えた大名の息子
蜂須賀家政が阿波に入国した際に
城を建てることにし、
山頂の竜王宮の立ち退きを命じた。
それを頑なに拒否した清玄坊は、
ある日弓矢で射殺されてしまう。
そして築城後、清玄坊の首が飛び回り
藩主は病になるという祟りが起きた。
清玄坊の祟りを鎮める為に
天石門別豊玉龍王宮を再建したことで
祟りはなくなったのだそうな。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
命をかけ、亡くなった後も
豊玉姫を守った清玄坊さまのお話。

「清玄坊の祟り」は、
阿波古代史、
そして豊玉姫の痕跡を辿るためには
知っておかなければならない。

清玄坊の由来について
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清玄坊の元祖は清和天皇で、
皇子民籍降下にあたり天皇より
「源氏」の称号を賜わり、
後に修験者となり三好家と共に
阿波に移り城山に祈祷所を建てていた。
蜂須賀公が阿波に入国、
築城に際し付近の全寺社に移転を命じたが、
清玄坊だけは頑としてこれに応じない為、
公は一計を編み換地を与えると言って
城下に連れ出し、紙屋町を通行中後から
弓で射て謀殺した。
途端に蜂須賀家には、
変事が続出したので公は
清玄坊の祟に違いないと、
前非を悔いて石碑をたて、
末代まで供養することを誓った所、
此の変事はピタリと止ったという。
以来紙屋町の住民は毎年お祭を続けている。
清玄坊の長男範月は家政公と和睦をし、
父の菩提を弔う為、
刻んだ石地蔵が霊験あらたかで、
現在掃溜地蔵として瑞巌寺に安置する。
次男右京院、三男左京院は難を逃れて、
阿波郡の東西善地に落ち着き、
祈祷の傍ら農業をしながら酒巻家として
今日に至っている。
その子孫の五宝翁太郎は
徳島県立聾唖学校の創始者であり
初代校長でもある。
又真珠湾攻撃で魚雷不発の為、
九死に一生を得た特攻隊員の酒巻和男も
此の子孫である。
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後ろには『三江ウタノ遺』❓️
「三江」は徳島の古い地名や地域名、
あるいは川の流域を指す場合があり、
「ウタノ遺」は「歌の遺(のこ)し」
=歌や伝承、功績を後世に伝える
という意味があるようだが
真意は定かではない。


遠目から。
すこし寂しげにも見える。


さて、下山。






『弁天池』。
池の名前の由来は、
池のほとりに「弁財天(弁天様)」を
祀る小さな祠があったことによる。
弁財天は水の神、芸能・財運の神として
信仰されてきた。
豊玉姫との関係やいかに。。



『城山貝塚』。
約4000~2300年前の縄文時代の洞窟遺跡。
徳島生まれの鳥居龍蔵博士によって
発掘調査がおこなわれた。
発見された中でも特に興味深いのは、
ほぼ完全な屈葬人骨一体を含む、
三体の人骨が発見されたことである。
発掘調査により見つかった完全な人骨には、
ある特徴があったのだそうな。



『鳥居龍蔵先生記念碑』。
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鳥居龍蔵博士は、明治七年徳島市に生まれ、
東京帝国大学を卒業され、
考古学・人類学・民族学の三分野にわたり、
我が国の学界に不滅の業績を残された
世界的な学者である。
博士は、我が国はもとより、
朝鮮・満州・樺太・シベリア・
中国・南洋諸島など広く調査研究を行い、
特に徳島地方の考古学的発掘調査においては、
城山貝塚の発見をはじめ、
県下各地の遺跡調査に偉大な貢献をされた。
ここに先生の遺徳を偲び、
この地に記念碑を建立する。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ちなみに鳥居博士は、
沖縄でも発掘調査をおこなっている。
もしかしたら日本古代史の秘密に
触れていたのかもしれない。
そして、『鳥居』『龍蔵』の名も
なにか運命的なものも感じてみたり…






発掘調査により見つかった人骨には
ある特徴があった。
阿波古代史のバイブル
『道は阿波より始まる』によると↓
貝殻の腕輪をつけ、
頭髪に本榊を飾った女性の完全な人骨、
全国でも珍しい
大粒の砂金をねり込んだ壷の一片、
この壷の残りの部分は同地大石の土の中に。
また、
一枚の青石の上にのせられた頭蓋骨ひとつ。
この頭蓋骨だけは新しく、
調査関係者は、
出てきた瞬間に感じたという。
「清玄坊の首だ」と。

女性の人骨が豊玉姫だったら面白い。
しかし、証明するのは難しいだろう。






『徳島城 鷲の門』。
阿波忌部の祖神は『天日鷲命』。
阿波にふさわしい門名である。




徳島駅から徒歩圏内の城山。
知れば知るほど見所多し。

平安中期、927年に編纂された法令集
『延喜式』の神名帳に記載される
延喜式内社。
その中で『豊玉姫』の名を冠するのは
阿波一国のみ。
『天岩門別豊玉比売神社』
『和多津美豊玉比売神社』。
豊玉姫信仰の中心地であり、
国家的にも特別視されていた証拠である。
かつて城山に祀られていた
龍王宮『天岩門別豊玉比売神社』は、
明治8年(1875)の徳島城取り壊しの際に
眉山の麓にある伊賀町1丁目の
国瑞彦神社に合祀された。
その後、
徳島市眉山町の春日神社境内に遷座され
現在に至っている。
国瑞彦神社はこの城山から徒歩圏内。
行く以外の選択肢は見当たらなかった。
謎は深まるばかりだが、
豊玉姫の足跡がうっすら見えた気がした。
つづく。
ではまた❗