梨木香歩著の「裏庭」を読んで、私がまず思ったのは、どのような辛い、ひどい体験をしても、「傷を恐れず、支配もされず、その傷を大事に育む」ことで、自尊心低下の状況から抜け出せるのでは?との望みでした。絶望の中からこそ芽生える希望はあるのかもしれないとも感じました。

ただこのプロセスは、かなりの時間経過と、もがき苦しみつつその傷に向き合う決意も必要かなと感じ、言葉ほどには簡単なことでもないと思います。

 

言うは易し行うは難しです。辛い体験をし、傷の中で身動きがとれなくなった状況から抜け出すのことの大変さは、自死遺族のグリーフの立ち直りとも重なります。

 

長い間、世間の自死への偏見・差別(スティグマ)を意識し、自死遺族になったことを伝えるのを恐れる自分がいました。あの子を亡くしたことと同じくらい、スティグマは苦しい体験でした。もっともこれは本人の心がけ、意識というよりはトラウマ的な体験がそうさせるとも聞きますから、必ずしも遺された遺族の問題だと意識変革を迫ることで解決できるものでもないかもしれません。

かけがえのない人が自死したことは受け入れがたい信じられないことであり、震え上がり、寝込むほど、あるいはじっとしておられずに極端に動き回るほど怖いことであるのです。生物なら当然な特別な反応とも言えるでしょう。

私も世間とは透明な壁が出き、会いたい人、話したい人は限られてしまいました。引きこもり状態で自分を守っていたのだと思います。この体験から、無理だと自分の状況を判断したなら、時に逃げることも大事だと私は思っています。傷ついた心を治すには、まずは安全・安心な場にいるしかない。動物も深い傷を負うとうずくまります。それと似ているかもしれません。

年月を経た今、私は自死で遺されたことを恐れる必要はない、下を向かずに前を向いて歩きたいと、思っています。そう思うように意識を変える努力したと言うよりは、徐々に気持ちが落ち着いて変容してきたと言う方が正しいでしょう。

悲しみを抱えてはいますが、なにも世間を恐れることではないのです。

亡き人も私も、他者に後ろ指をさされることをしたわけではないと思います。