朝、慎ましく朝食を済ませ、大抵は散歩をした後に、机に向かう。


自分にとって譲れないものは何か、と問われたら、この時間の流れ、答えよう。


「生ぜしもひとりなり。死せるも独りなり」


一遍上人の言葉が若い頃は分かっていなかったのだと思う。


この言葉。


東京新聞の昨日の特集から頂いたもの。


昨日の読書欄は瀬戸内寂聴氏が特集されていた。


東京新聞がおもしろい。


なんというか、書き手が見える、と言ったらいいのだろうか。


100円という値段もいい。


日曜日は出来るだけ買うようにしている。


因みにウチは新聞はとらないので普段は新聞は読まない。


日曜日に買うのには他にも理由がある。


「あの人に迫る」という特集を楽しみにしている。


先日のこと。


高野昭夫さんという方が特集されていた。


ゲバントハウスの国際広報室長をなさっているそうだ。


自らが壮絶という、その経歴がすごい。


詳しくは10/25付の記事にあたって頂きたいのだが、要約させて頂くと、


1960年生まれ。中学生のときに初めてバッハに触れ「世の中にこんなものがあるのか」と、次の日から高校を卒業するまで市内の図書館にレコードを聞くために通い詰め、休学を含めて7年間も通った大学時代にライプチッヒのトーマス教会に行ってしまって、そこでバッハの墓の花を替えるなどの手伝いをしながら過ごして、その後もずっとフリーターをしながら、ライプチヒに通う。そんな生活を続けるうちに精神的に追い詰められて、一旦は就職した会社も辞めて、アパートに閉じこもる生活が続いていたところに、来日したトーマス教会合唱団の知りあいの助言で精神科を受診してうつ病と診断され生活保護で生活するようになり、そんなどん底のときに、彼を心配したトーマス教会の連中が向こうに招待してくれてそこで仕事を手伝うようになって現在に至る、というもの。


簡単すぎる要約で的を得ないかも知れない。


改めて、山登りに、道は一つではないのだということを感じた。


しかし、それも欧州でのこと、欧州の底深さを見た思いがした。


というのも、


同じ「あの人に迫る」で、昨日は、現在、犬山市で議員として活動を続けるビアンキ・アンソニー氏が特集されていたのだが、ニューヨーク生まれの彼が、来日して英語教育に携わるようになって、そうした活動を広げていこうと苦労していた頃、行政の側の人間から「日本人の英語の先生を守ってあげないと」と言われたという部分を興味深く読んだ。


ありがちだ、と思った。


その後も、前例がない、条例にひっかかるなどの理由で苦労は絶えないそうだ。


むろん、欧州や米国が手放しで外国人に門戸を開いているなどということはないし、この苦しいなかで、むしろ保護主義に走る傾向が強いのはどこも同じかと思われる。


だから、手放しで欧米を称賛するつもりもないのだけれど、それでも、改めて、この国は、国というよりは、貴族とそれを囲む人々のための装置に過ぎない、ということを考える。


それは、平安時代を想定すれば分かり易いように思われる。


貴族以外は「人」として認知されていなかった時代を思えば想像がつくかと思われる。


だから、小さい頃から誰しもそこを目指すのだろう、と理解している。


そうして、例えば、その切符を発行してくれると期待されている「大学」に殺到する。


「大学」は本来、そうした切符を発行するのとはむしろ逆の装置であったし、その切符の御利益もすでに疑わしいものになったのではあるけれども。


また切符云々でなくとも、何らかの事情で一度レールを外れた者が再び這い上がることは非常に難しいというのも周知のことかと思われる。


最近では、最低限の生活保護ですら上手上手に削減の方向で話が進む。


個人ではできないことをやるのが国ではなかったか。


一遍上人から随分と話が飛躍してしまった。


今週末はいよいよ12月。


驚き以外何もない。


カタルーニャの州議会選挙は興味深い。


分離独立を支持する政党が過半数を占めたとはいえ、与党は議席数を減らしたという結果だそうだが。




nogawan