確かに隠居というと「何もしない」というイメージがつきまとう。


畑仕事をしたり縁側でお茶を飲んだりがせいぜいのところ、そんな感じだろうか。


ところで、時代は自室で打った情報が瞬時に地球の裏側まで届く、そんな時代である。


隠居を古いイメージに縛りつける必要はどこにもない。


何をしたっていいではないか。


ボランティア活動もよし、あるいは会社を興しても構わない。


越後のちりめん問屋のご隠居さんが世直しの旅に出たというドラマの話でもいい。


隠居と隠棲とどこが違うのか、という話は置いておくとして、


なに長明だってわざわざ鎌倉まで将軍に会うため旅をしている。


案外に活動的なのだ。


そういえば西行も鎌倉に将軍を訪ねている。


印象よりもはるかに政治的だったのかも知れない。


野ざらしをこころに風のしむ身かな。


そう読んだ芭蕉も旅につぐ旅を続けた。


個人の思いつきで簡単に旅が為し得る時代ではない。


隠棲と括られつつもむしろ活動的だったのである。


隠居を閉じたイメージに閉じ込める必要はない。


これからは隠居が文化をつくる時代になるかも知れない、と思う。


もっとも、西行であれ長明であれ当時のセレブであることを忘れてはならない。


セレブだから隠棲ができた、とも言える。


当時、庶民は生きていることがまだ不思議な時代なのである。


現代も同じかも知れない。


下手に庶民が隠棲を気取ると火傷をするかも知れない。


しかと心したい処である。



nogawan